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第329節『馬場の罠』

第329節『馬場の罠』

 井伊水軍が、死と隣り合わせの航海を続けている頃。

 浜松城の対岸に築かれた武田軍の陣屋では、一人の将が、地図の上に広げられた浜名湖の海図を、静かに睨みつけていた。

 馬場信春。

 彼の周囲には、主君の西進を祝う楽観的な空気など微塵もなかった。あるのは、見えざる敵への、氷のような警戒心だけだった。


(……静かすぎる)

 彼の脳裏には、三方ヶ原で目にした、あの井伊家の異様なまでの統率の取れた撤退ぶりが焼き付いて離れない。そして、その背後で糸を引く、あの軍師の影。

(徳川の若造は、敗戦の痛手で動けまい。だが、あの男が、このまま黙って冬を越すはずがない。陸が塞がれている今、奴が動くとすれば……)

 彼の指が、海図の上を滑り、浜松城へと繋がる幾筋もの入り江をなぞった。

 村櫛党を滅ぼし、井伊が強力な水軍を手に入れたという報せは、すでに彼の耳にも届いていた。

(……海か)


 彼は、この膠着状態こそが、敵にとって最大の好機であることを理解していた。

 浜松城への補給。それこそが、井伊水軍が狙う唯一の目的であろう。そして、動くとすれば、常人が最も油断するこの嵐の夜をこそ、選ぶだろう。


「――者どもを呼べ」

 馬場の低い声が、静かな天幕に響いた。

 彼の前に進み出たのは、弓と鉄砲で武装した、陸戦の精鋭部隊だった。

「今宵、お前たちには狩人となってもらう」

 彼は、海図の一点を指し示した。そこは、浜松城へと繋がる複数の入り江を見下ろすことができる、鬱蒼とした森だった。

「この森に潜み、湖上を見張れ。井伊の船団が現れるとすれば、必ずやいずれかの入り江に荷揚げのため接岸するはず」


 部隊長が、訝しげに問い返す。

「……はっ。されど、敵がどの入り江を選ぶかは……」

「いずれでもよい」と馬場は静かに首を振った。「お前たちの役目は、戦うことではない。敵船団が荷揚げを始め、最も無防備になった瞬間、即座に狼煙を上げ、その存在を本陣に知らせること。そして、可能な限り矢を放ち、敵の足を止めることだ。深追いは無用。犬死には許さぬ」


 それは、敵を殲滅するための罠ではなかった。

 敵の意図を探り、その動きを完全に封じ込めるための、陸と海を連携させた見えざる網であった。荷揚げの現場を押さえさえすれば、本隊を率いて一気に叩き潰すことができる。

 彼はさらに、湖上に数隻の斥候船を放った。彼らの役目は、井伊船団の進路を特定し、陸の伏兵部隊に狼煙で知らせる目となることだった。


(来るなら来てみよ、井伊の軍師。お前が、儂の張った陸の網を破れるかどうか、見せてもらうぞ)

 馬場は、自らが仕掛けた周到な罠に、敵がかかるのを静かに待っていた。

 彼の脳裏には、まだ見ぬ好敵手との、知略の応酬が始まっていた。

 嵐の闇に包まれた浜名湖の沿岸で、武田の伏兵が、静かにその息を潜めていた。

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