第328節『出港』
第328節『出港』
権兵衛の決意に満ちた咆哮が、嵐の前の静けさを破った。
それに呼応するかのように、兵たちの間から「おおっ!」という地鳴りのような鬨の声が上がる。恐怖は、どこにもなくなった。あるのは、この無謀に見える作戦を必ずや成功させるのだという、一つの巨大な意志だけだった。
その熱気の頂点で、旗艦「竜神丸」の櫓の上に立つ源次は、静かに、しかし力強く、軍配を振り下ろした。
「――出航!」
その短い号令が、全ての始まりだった。
風雨が強まる中、井伊水軍が、ついに浜名湖の秘密の入り江から、その重い船体を滑り出させた。
先頭を行くのは、権兵衛が自ら舵を握る、数隻の偵察部隊。
彼らは、この日のために用意された、船首にわずかな灯りを灯しただけの小早船に乗り込み、荒れ狂う波の中へと、ためらうことなく飛び込んでいった。彼らの役目は、ただ一つ。長年の勘と経験を頼りに、暗礁を避け、風を読み、後続の船団が通るべき、わずか一筋の安全な航路を、その身をもって切り拓くこと。彼らの灯りは、この作戦の、か細くも絶対的な生命線だった。
そのすぐ後ろを、米を満載した十数隻の商船団が続く。
船主たちは、必死の形相で舵を握りしめていた。船は嵐に煽られ、木の葉のように揺れ、船べりを越えて叩きつける波が、容赦なく彼らの体温を奪っていく。
だが、彼らの目は、恐怖に怯えてはいなかった。
ただ一点、暗闇の中でかすかに揺れる、権兵衛の船が掲げる灯りだけを、食い入るように見つめている。
あの光を見失えば、死ぬ。
その単純な事実が、彼らの操船技術を、極限まで研ぎ澄ませていた。
そして、その脆くも必死な船団全体を、巨大な翼で包み込むようにして、新太率いる戦闘部隊が、前後左右から固めていた。
彼らは、櫂を漕ぐことよりも、周囲の闇への警戒に全神経を集中させている。いつ、どこから武田の水軍が襲いかかってきても、即座に迎撃し、輸送船団を決して沈ませはしない。その鋼のような決意が、彼らの陣形を、鉄壁の守りへと変えていた。
新太は、旗艦の船首に立ち、闇に包まれた湖面を、獣のように鋭い目で見据えている。
彼の槍は、まだ鞘に納められたままだった。だが、その鞘の中で、刃は静かに出番を待ちわびていた。
先導する者、荷を運ぶ者、そしてそれを守る者。
三つの異なる役割を担った部隊が、一つの目的のために、見事な連携を見せている。
源次は、その全てを、竜神丸の櫓の上から、静かに見守っていた。
彼の胸に、不安はなかった。
自らが信じ、選び抜いた仲間たちが、それぞれの誇りを胸に、それぞれの役目を完璧に果たしている。その光景が、彼に確信を与えていた。
井伊水軍の、徳川家の運命を賭けた、無謀で、しかし確かな希望に満ちた決死の航海が、ついに始まった。
闇と嵐に包まれた浜名湖の湖上で、歴史に記されたことのない物語が、今まさに動き出そうとしていた。




