第327節『嵐の予兆』
第327節『嵐の予兆』
「――今夜、決行する!」
源次の号令一下、それまで静寂に包まれていた井伊水軍の拠点は、一瞬にして熱を帯びた。
兵たちが慌ただしく走り回り、米俵が次々と商船へと運び込まれていく。帆が張られ、碇が上げられ、船乗りたちの威勢の良い掛け声が、夜の入り江に響き渡った。
ついに来たか――誰もが、決戦の時を前に、緊張と昂ぶりで身を震わせていた。
だが、その熱狂の中で、ただ一人、険しい顔で空を仰いでいる男がいた。
権兵衛だった。
彼は、拠点にいる誰よりも、海の声を聴くことができる。
西の空に低く垂れ込めた暗雲。生暖かく、湿り気を帯びた風。そして、入り江の外から聞こえる、いつもとは違う波の唸り声。
その全てが、間もなくこの湖が牙を剥くことを、彼に告げていた。
彼は、櫓の上で出航準備を監督する源次の元へと、大股で駆け上がった。
「源次!」
二人きりの時、彼の呼び名は軍師ではなく、ただの男の名に戻る。
「……本気か。この空を見て、何も感じねえのか。嵐が来るぞ。それも、この冬一番の大時化だ。俺たちの船ならまだしも、商人たちの舟じゃ、ひとたまりもねえ。半分もたどり着けりゃ御の字だ」
その声には、作戦への反対ではなく、仲間を無駄死にさせたくないという、海の男としての切実な響きがあった。
兵たちの間にも、「この時化で舟を出すのか」という動揺が、さざ波のように広がり始めていた。
だが、源次は、その権兵衛の顔を真っ直ぐに見返し、不敵に笑った。
「いや、権兵衛。これこそが、天が我らに与えたもうた、最高の好機だ」
彼は、風が唸りを上げる闇の湖面を指さした。
「この嵐こそが、敵の警戒を緩ませ、我らの航跡を闇に隠してくれる、天然の隠れ蓑になる。そして何より」
彼は、不安げな顔でこちらを見上げる商人たちを一瞥した。
「彼らは、ただの荷運びではない。この湖の潮の流れ、風の向きを読み、自らの舟を操る術を知り尽くした、海の民だ。そうだろ?」
その問いに、権兵衛は息を呑んだ。
「あんたが、偵察部隊を率いて先陣を切れ。嵐の中で、最も安全な『裏の道』を切り拓くんだ。商人たちは、そのあんたの航跡だけを頼りに、自らの腕の全てを懸けてついてくる。そして、その船団全体を、新太の戦闘部隊が前後左右から守り抜く。――これは、誰か一人の力で成し遂げる作戦じゃない。操船の権兵衛、武勇の新太、そして航路を知る商人たち。その全員の力が一つになって、初めて可能になるんだ」
その言葉は、権兵衛の、そしてそれを聞いていた全ての兵たちの胸を打った。
自分たちは、ただ命令に従う駒ではない。それぞれの持つ技と誇りを結集させ、この不可能に挑むのだ。
権兵衛の顔から、不安の色が消えた。
「……へっ。言ってくれるじゃねえか、大船頭」
彼は、腹の底から豪快に笑った。
「分かったよ。そこまで言われちゃ、海の男が引き下がれるか。見せてやるぜ。この俺と、浜名湖の商人たちの、本当の底力ってもんをな!」
彼のその一声が、兵たちの最後の動揺を吹き飛ばした。
天候すらも自らの計算のうちであると語る源次の姿に、兵たちは人知を超えたものを感じ、畏怖の念と共に、絶対的な信頼を寄せるのだった。
嵐は、もはや恐怖の対象ではなかった。
彼らが勝利を掴むための、最高の味方へと変わっていた。