第326節『一条の光』
第326節『一条の光』
絶望が、浜松城を支配していた。
飢えと疲労、そして先の見えぬ籠城生活。鉄の結束を誇った三河武士団の心も、日に日に蝕まれ、城内にはもはや諦めの空気だけが漂っていた。
だが、その澱んだ空気の中、ただ一人、鋭い目を光らせて機を窺っている男がいた。
佐平。
かつて村櫛湊の酒場で、その弁舌一つで海賊の懐に潜り込んだ、源次配下の諜報員。彼は、三方ヶ原の敗戦後、混乱に乗じて浜松城下にもぐりこみ、物売りを装いながら城内の情報を探っていた。
そして、ついにその夜、彼は決定的な情報を掴んだ。
城内の兵糧蔵の管理を任されていた足軽頭が、絶望のあまり酒に溺れ、馴染みの女にこう漏らしたのだ。
「……もう、終わりだ。米は、あと三日分しか残っておらん……」
その言葉を、壁一枚隔てた隣室で、佐平は息を殺して聞いていた。
(……三日)
その数字が、彼の脳裏に焼き付く。
これこそが、軍師・源次が待ち望んでいた「時」を告げる、最後の引き金。
佐平は、夜陰に紛れて城下を抜け出すと、命がけで湖畔の連絡拠点へと向かった。
彼が放った矢文は、幾人もの連絡員の手を経て、夜の闇を駆け抜けていった。
浜名湖上、旗艦「竜神丸」。
櫓の上で、源次は冷たい湖面の闇を、ただ無言で見つめていた。
彼の周囲には、息を殺した伝令たちが控え、陸からの報せを今か今かと待ち構えている。
やて、湖岸から小さな光が二度、三度と点滅した。
あらかじめ示し合わせていた合図。
ほどなくして、一隻の小舟が、音もなく竜神丸へと接舷した。
舟から飛び乗ってきた連絡員が、震える手で小さな竹筒を源次に差し出す。
「……ご苦労だった」
源次は短く労うと、竹筒から取り出した紙片を、油皿の灯りにかざした。
そこに記されていたのは、佐平の筆跡による、ただ一言。
『――米、三日』
その三文字を読んだ瞬間、それまで石像のように静かだった源次の全身に、電撃のような気配が走った。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや待つ者の静けさはない。
獲物のか細い息遣いを捉え、まさに飛びかからんとする、狩人の獰猛な光が宿っていた。
これまで抑えに抑えてきた、全ての力が、今、解き放たれる。
「――時は、満ちた」
その声は、囁きに近かったが、船上の全ての者の鼓膜を震わせた。
源次は、それまでの静寂を破り、ついに立ち上がった。
そして、傍らに控える権兵衛と、別の船で待機する新太へと視線を送ると、腹の底から、この作戦の始まりを告げる、最初の号令を放った。
「――全艦隊に伝えよ! 今夜、決行する!」
その一言が、闇に閉ざされていた浜名湖に、一条の光を灯した。
絶望の淵に立つ徳川家を救うための、そして、歴史の流れに抗うための、あまりにも無謀で、しかし確かな希望に満ちた作戦が、今まさに始まろうとしていた。
竜神丸の甲板が、兵たちの慌ただしい足音で、にわかに活気づき始めた。