第325節『絶望の重石』
第325節『絶望の重石』
信玄本隊が西へ去った後も、浜松城に平穏は訪れなかった。
城の目と鼻の先には、馬場信春が率いる武田の精鋭部隊が、まるで巨大な蛇がとぐろを巻くかのように陣を敷き、城を睨み続けている。彼らは総攻撃こそ仕掛けてこないが、その存在そのものが、城兵たちの心を締め付ける、見えざる「重石」となっていた。
城は、完全に陸の孤島と化した。
城内は、生ける屍たちの溜息で満ちていた。
三方ヶ原で心身ともに打ちのめされた敗残兵たちは、壁に寄りかかり、虚ろな目でただ空を眺めている。槍を握る力さえ失い、仲間が死んでいく様をただ見ていることしかできなかった自らの無力さに、魂を抜かれたかのようだった。
治療所からは、負傷者の呻き声が昼夜絶え間なく聞こえてくる。薬草は尽きかけ、傷口から腐敗の臭いが漂い始めていた。
そして、その絶望に追い打ちをかけたのが、「飢え」だった。
三方ヶ原の後、城には数千の敗残兵が雪崩れ込んだ。さらに、武田軍の侵攻を恐れた近隣の村々から、女子供を含む数千の領民たちが、なけなしの家財を手に浜松城へと逃げ込んできた。
城内の人口は、当初の想定の三倍以上に膨れ上がっていた。
兵糧蔵の米は、恐るべき速度で消費され、日に日にその底が見え始めていた。
「……もう、粥も三日に一度しか出せぬそうだ」
城壁の見張りに立つ若い兵が、乾いた唇で呟いた。
「水で腹を膨らますのも、限界だ……」
隣の兵は、力なく首を振るだけだった。
その絶望的な状況を、家康は天守から、ただ歯噛みして見下ろすことしかできなかった。
自らの采配が招いた、この地獄。
城外での決戦を選んだ、あの日の己の驕り。
それが、これほどまでに多くの民と兵を苦しめる結果となった。その自責の念が、彼の心を夜ごと苛んでいた。
「……儂の、過ちか」
誰に言うでもなく漏れた声は、冬の風にかき消された。
評定の間もまた、重い沈黙に支配されていた。
酒井忠次が、蒼白な顔で報告する。
「……兵糧は、もってあと五日。それを過ぎれば、城内は餓死者で溢れましょう」
本多忠勝は、無言で拳を握りしめていた。
「……打って出るしか、ありますまい。このまま飢えて死ぬよりは、武士として……!」
だが、その声には、もはや以前のような覇気はなかった。飢えた兵を率いて、万全の態勢で待ち構える馬場隊に挑むことが、どれほどの無謀であるか、彼自身が一番よく分かっていた。
打って出ても地獄。
籠っていても地獄。
徳川家は、静かに、しかし確実に、飢えという名の新たな地獄へと、一歩ずつ追い詰められていた。
もはや、打つ手はないのか。
誰もが、そう思い始めた、その時だった。
遠江の海から吹く風が、浜松城の旗を、わずかに、しかし確かに揺らした。
その風が、次なる報せを運んでくることを、まだ誰も知らなかった。