第324節『虎の選択、宿将の懸念』
第324節『虎の選択、宿将の懸念』
三方ヶ原に勝利の鬨の声を残し、武田信玄の本陣は、すでに次なる目的地を見据えていた。
床几にどかりと腰を下ろした信玄は、地図の上で駒を一つ、西へと滑らせる。その動きに、居並ぶ猛将たちは息を呑んだ。駒が止まった先は、三河の国。
「浜松の若造は、もはや籠の鳥。相手にする価値もないわ」
信玄の声は、絶対的な自信に満ちていた。
「これより全軍、ただちに三河へ進む。我らが目指すは京の都。小城一つに構っておる暇はない」
その選択は、家康を無視して上洛の道を突き進むという、冷徹で合理的な判断だった。
だが、その空気を断ち切るように、一つの重い声が響いた。
「――お待ちくだされ、御館様」
馬場信春だった。
彼は地図の前に進み出ると、険しい表情で主君を見据えた。
「浜松城は、確かに脅威ではありませぬ。ですが、その背後に潜む『井伊』の存在、あまりに不気味にございます」
彼は、祝田の谷での不可解な敗戦と、三方ヶ原で中野が解放した捕虜から伝えられた不気味な噂――「井伊谷には、信玄公の兵法を知り尽くした者がいる」――を言上した。
「このまま本隊が進軍すれば、必ずや背後から兵站を脅かされます。危険にございます」
その言葉に、山県昌景が鼻で笑った。
「馬場殿も、臆病になられたものよな。井伊ごとき、山猿の集まり。脅威とはなりますまい」
「黙れ!」と馬場が一喝する。「そなたは、あの軍師の本当の恐ろしさを知らぬのだ!」
天幕の中は、一触即発の空気に包まれた。
信玄は、そのやり取りを黙って聞いていた。そして、やがて結論を下した。
「……馬場の懸念、尤もじゃ。されど、我らが大軍の進路を、鼠一匹のために変える必要はない」
彼の瞳が、冷たく光る。
「井伊の軍師とやらが、いかに知恵を巡らそうと、しょせんは小国の足掻き。我らが本隊の敵ではない。今は放置せよ。我らが三河を制圧し、浜松を完全に干上がらせた後、その首を刎ねても遅くはないわ」
それは、絶対的な強者だけが下せる、非情なまでの判断だった。井伊谷は、危険ではあるが、今すぐ叩くべき最優先目標ではない。後でいくらでも潰せる「後回し」の存在と見なされたのだ。
そして、信玄は妥協案を口にした。
「ただし、馬場よ。そなたの懸念ももっともだ。そなたに一軍を預ける。浜松城周辺に残り、城を牽制し、そして何より、その井伊とかいう鼠が、我らの背後でちょろつかぬよう、完全に封じ込めよ。儂が三河を制圧するまで、一匹たりとも動かすな」
それは、史実にはなかったはずの決断。
源次が蒔いた「恐怖」という名の小さな種が、百戦錬磨の将の心を揺り動かし、ついに甲斐の虎自身の判断をも歪ませた瞬間だった。
信玄の西進は変わらない。だが、その背後には、馬場信春という最強の「重石」が残されることになった。
この歴史の歪みが、やがて井伊水軍に最大の活躍の舞台を与えることになる。
そしてその活躍こそが、源次が真に恐れる新たな「未来」――武田軍から、「抵抗勢力」として完全に殲滅されるかもしれないという可能性――を覆すための活路となることを、この時、この場にいた誰もが知る由もなかった。