第323節『敗走』
第323節『敗走』
日が落ち、三方ヶ原を覆っていた血と土煙の匂いは、夜の冷気に少しずつ浄化されていった。
あれほど凄まじかった鬨の声も、刃の交わる音も、今はもう聞こえない。ただ、冬枯れの野を渡る風の音だけが、無数の死者の魂を弔うかのように、悲しげに響いていた。
戦は、終わった。徳川軍の、完全な敗北によって。
浜名湖上に浮かぶ旗艦「竜神丸」。
その櫓の上で、源次は一つの報せを待っていた。
徳川家康の、安否。
戦況は、湖岸に命からがら逃げ延びてきた敗残兵たちの断片的な報告によって、すでに最悪の形で伝わってきていた。だが、総大将の生死が分からぬ限り、この戦は本当の意味では終わらない。
やがて、闇に包まれた湖面を、一隻の小舟が、最後の力を振り絞るように近づいてきた。
引き上げられたのは、鎧も兜も失い、見るも無惨な姿となった数人の徳川兵だった。その中の一人、近習と思しき若い武士が、源次の前に崩れ落ちるように膝をついた。
「……殿は……家康様は、ご無事にございます」
その一言に、竜神丸の甲板にいた者たちから、安堵のため息が漏れた。
だが、若武者が語ったその後の顛末は、聞く者すべてを戦慄させた。
夏目吉信をはじめとする多くの忠臣たちが、主君の身代わりとなって次々と武田の刃に倒れていったこと。
供回りわずか五騎で、死に物狂いで浜松城へと逃げ込んだこと。
そして――。
「……殿は、城にたどり着くなり、全ての城門を開け放ち、全ての櫓に篝火を焚くよう命じられました。追撃してきた山県隊は、そのあまりの不敵さに伏兵を疑い、城内に踏み込むことなく引き返していった、と……」
空城の計。
絶体絶命の窮地で、家康が咄嗟に放った、起死回生の賭けだった。
源次は、その報告を黙って聞いていた。
彼の脳裏には、評定の間で激情に駆られていた、あの若い将の姿が浮かんでいた。
(……あの人は)
彼は、改めて家康という男の器の大きさを思い知らされていた。
(ただの武辺者ではない。土壇場で、常人では考えも及ばぬ胆力と機転を発揮する。それこそが、あの人を棟梁たらしめているものか)
だが、感心している暇はなかった。
止めようとした最悪の事態――徳川軍の壊滅――は、現実のものとなったのだ。
「……間に合わなかったか」
源次の口から、ぽつりと呟きが漏れた。
それは、家康の敗北を止められなかったことへの悔恨ではない。
歴史の大きな流れが、ついに自らが予測した通りの段階へと至ってしまったことへの、冷徹な確認の言葉だった。
彼は感傷を振り払うと、即座に軍師の顔に戻った。
「権兵衛殿、新太殿を」
彼の静かな、しかし有無を言わせぬ声が、夜の甲板に響いた。
すぐに、二人の将が彼の前に進み出る。
源次は、彼らの顔を見渡し、静かに、しかし力強く告げた。
「ここからが、我らの戦だ」
彼は、湖上に待機させていた輸送船団の方角を、軍配で指し示した。
「全艦隊に伝えよ。――ただちに出航準備に入れ、と」
徳川の命運を賭けた、海の生命線作戦が、ついに動き出す。
陸の戦は終わった。
だが、本当の戦いは、今まさに始まろうとしていた。