第322節『歴史の歪みと、一粒の種』
第322節『歴史の歪みと、一粒の種』
三方ヶ原の台地は、もはや戦場ではなかった。
それは、一方的な狩場だった。
武田信玄が敷いた完璧な魚鱗の陣の前に、徳川軍は為す術もなく打ち砕かれ、完全に総崩れとなっていた。
「逃げろ! 浜松へ!」「助けてくれ!」
兵たちは武器を捨て、鎧を脱ぎ捨て、ただ生き延びるためだけに西へ、西へと駆けていく。その無防備な背中を、武田の騎馬隊が容赦なく蹂躙していく。
その追撃の先鋒を率いていたのは、武田四天王が一人、馬場信春だった。
彼の役目は、敗走する徳川軍を追撃し、一人でも多く討ち取ることで、敵の戦意を根絶やしにすること。百戦錬磨の彼にとって、それは手慣れた作業のはずだった。
「――進め! 徳川の兵を一人たりとも逃がすな!」
彼の号令一下、配下の部隊が津波のように敗残兵の群れへと襲い掛かろうとした、その時だった。
彼の視界の端に、一つの旗印が映った。
乱戦の中でなお隊列を崩さず、後詰としての役目を果たしながら、しかし巧みに戦線を後退させていく一団。その旗には、見覚えのある井桁の紋が染め抜かれていた。
――井伊。
その瞬間、馬場の脳裏に、あの忌まわしい記憶が稲妻のように蘇った。
祝田の谷。
完璧な罠を仕掛けたつもりが、そのさらに裏をかかれ、伏兵が逆に殲滅させられた、あの悪夢。戦後、彼は捕虜を尋問し、生き残りの報告を精査する中で、その作戦の全てを、顔も見えぬ一人の軍師が描いていたことを突き止めていた。
――井伊の源次。
その名が、彼の誇りに刻まれた、決して消えぬ傷跡だった。
(……あの男の隊か)
彼は、思わず手綱を引いた。
武人としての本能が、警鐘を乱打していた。
(あの男が、これほどの大戦で、ただ味方の後詰に甘んじているはずがない。この整然とした撤退……あまりに美しすぎる。これは敗走ではない。我らを誘い込むための、新たな罠だ。この道の先、あの谷の向こうに、必ず伏兵が潜んでいる……!)
源次が植え付けたトラウマが、この歴戦の猛将の、最も重要な局面での判断を、確かに鈍らせていたのだ。
「……全軍、速度を落とせ! 井伊の旗を深追いするな! 左右の林を警戒しろ! 斥候を放て!」
彼の、あまりに慎重すぎる命令に、部下たちは戸惑った。
「馬場様!? 目の前の徳川兵こそが本隊! 井伊など、小勢にございますぞ!」
「黙れ! 蛇の頭は徳川やもしれぬが、その毒牙は井伊にこそあるわ! 儂の目に狂いはない!」
その一瞬の躊躇。
歴史の巨大な流れから見れば、ほんのわずかな時間のロス。
だが、その一瞬の隙が、中野直之率いる井伊の本隊に、奇跡としか言いようのない活路を与えた。
中野は、馬場隊の追撃が、自分たちの旗を見た瞬間に、明らかに緩んだのを肌で感じ取っていた。
(……源次殿の言う通りだ。敵は、我らを過剰に恐れている……!)
彼は、この好機を見逃さなかった。
「今だ! この隙に退くぞ! 隊列を崩すな!」
彼は、この日のために源次から叩き込まれた撤退戦術を駆使し、驚くべき統率力で部隊をまとめ上げ、武田軍の包囲網から、ほぼ無傷で離脱することに成功した。
そして、中野はただ逃げるだけではなかった。
敗走の途中、彼はあえて数名の武田兵の将校を捕らえた。そして、彼らの武装を解き、馬を与えると、わざと彼らに聞こえるように言った。
「……生かして帰し、主に伝えよ。『井伊谷には、信玄公の兵法を知り尽くした者がいる。次に刃を向ける時は、甲斐の本国ががら空きになる覚悟で来い』とな」
それは、源次から固く命じられていた、第二の任務だった。
武田の将校たちは、その不気味な警告に顔を青ざめさせながら、甲斐の方角へと逃げ帰っていく。
情報操作の「種」が、再び武田軍内部に、今度はより深く、そしてより毒性の強い形で蒔かれたのだ。
中野は、その背中を見送ると、自らの部隊と共に、浜松城とは別の、源次が指定した湖畔の隠れ家へと、その進路を変えた。
彼が蒔いたその一粒の種が、やて信玄自身の判断をも揺るがし、井伊谷を救う最大の一手になるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。
戦場の片隅で生まれた、この小さな「歴史の歪み」。
それが、本当の始まりだった。