第321節『湖上の物見』
第321節『湖上の物見』
冬の浜名湖は、鉛色の空を映し、静まり返っていた。
その湖上に、井伊水軍の旗艦「竜神丸」は、まるで巨大な墓標のように、ただ一隻、静かに浮かんでいた。周囲には、伝令役を務める数隻の小舟が、主の命令を待つ猟犬のように息を潜めている。
源次は、その竜神丸の最も高い櫓の上に立ち、陸の方角――三方ヶ原台地――を、ただ無言で見つめていた。
風が、戦場の匂いを運んでくる。
血の鉄臭さ、馬の汗の匂い、そして、遠くで上がる土煙の、乾いた匂い。
耳を澄ませば、地を揺るがす鬨の声、刃の交わる金属音、そして時折、風に乗って聞こえる断末魔の叫びが、まるで悪夢の残響のように届いてくる。
彼は、その全てを、五感で受け止めていた。
やがて、湖岸から一隻の小舟が、必死の形相で竜神丸へと近づいてきた。
舟の上には、鎧を半ば失い、泥と血にまみれた徳川の敗残兵が数人、折り重なるように倒れている。
「……報告……申し上げます……」
竜神丸に引き上げられた兵士の一人が、震える声で語り始めた。
「敵は……魚鱗の陣……。我らが鶴翼の陣は、その中央突破の前に……為すすべもなく……」
その言葉は、史実の教科書の一節そのものだった。だが、目の前の男が語るそれは、インクの染みではない。血と肉を伴った、絶望的な現実だった。
また一隻、別の小舟が到着する。
「山県隊が……! 武田の赤備えが、我らの左翼を食い破りました! もはや、陣形は……ありませぬ……!」
報告は、断片的だった。だが、それらの情報を、源次は頭の中の地図の上に、冷静に配置していく。
左翼の崩壊。中央の突破。
鶴翼の陣が、その両翼をもがれ、心臓を貫かれた鳥のように、無残に崩れ落ちていく様が、彼の脳裏にはっきりと見えていた。
権兵衛が、険しい顔で源次の隣に立った。
「……源次。こりゃあ、もう……」
「ええ」と源次は静かに応えた。「勝敗は、決しました」
その声に、感情はなかった。
まるで、最初から決まっていた結末を、ただ確認しているかのように。
彼の視線は、もはや三方ヶ原にはない。
その先にある、浜松城へと続く、敗走の道筋を見据えていた。
(ここからだ。ここからが、俺の戦だ)
彼の脳裏では、無数の逃走経路と、それを追う武田軍の動き、そして、自らが率いる水軍が打つべき、次なる一手についての計算が、恐るべき速度で始まっていた。
陸の戦は、終わる。
だが、海の戦は、今まさに始まろうとしていた。
源次は、傍らに控える伝令に、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、最初の命令を下した。
「――新太殿に伝えよ。『漁場が、荒れ始めた。大網を張る準備に入れ』、と」
それは、味方ですら真意を測りかねる、謎めいた暗号だった。
だが、その一言こそが、この地獄の中から仲間を救い出し、そして歴史の流れに新たな一石を投じる、壮大な作戦の始まりを告げる合図であった。
湖上には、再び冷たい風が吹き始めていた。