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第320節『決戦の刻』

第320節『決戦の刻』

 歴史の針が、動いた。

 元亀三年十二月十九日。武田軍の猛攻と水の手を断つという調略の前に、遠江の要衝・二俣城が、ついに陥落した。

 その報せは、浜松城を、そして井伊谷を、冬の到来を告げる木枯らしよりも冷たく、そして激しく揺さぶった。


 浜松城の評定の間。

 伝令がもたらした「二俣落城」の一報は、最後の火をつけた。そして、武田軍は西に向かっているとのことであった。

「浜松を素通りする気か!もはや一刻の猶予もなし!」

「今こそ打って出て、敵の勢いを挫かねば!」

 猛将たちの声が、広間を震わせる。

 酒井忠次ら慎重派も、もはや籠城を主張できる状況ではなかった。敵は、城の喉元どころかその先にまで進もうとしているのだ。

 家康は、地図の上に置かれた二俣城の駒を、指でなぎ払った。

「―――出陣じゃ」

 その声は、低く、しかし地鳴りのように響いた。

 もはや迷いはない。追い詰められた獣が、牙を剥く。ただそれだけだった。

「全軍、ただちに城外へ! 敵は、三方ヶ原にて迎え撃つ!」

 城門が開かれ、徳川の兵たちが、熱狂のうちに進軍を開始していく。


 同じ頃、井伊谷城。

 直虎は、評定の間に主だった家臣たちを集めていた。

 彼女の顔に、動揺の色はない。この日が来ることを、覚悟していたからだ。

「――中野直之!」

「はっ!」

「そなたに、指揮を任せる! ただちに浜松へ向かい、徳川軍の後詰として陣を構えよ!」

 その命令に、中野は深々と頭を下げた。


 そして彼が、井伊の兵を率いて浜松城へと続く街道を進んでいた、その道中。

 一騎の早馬が、後方から土煙を上げて追いついてきた。馬上の男は、源次の側近の一人だった。

 彼は、中野の前に馬を止めると、息を切らしながら一通の短い書状を差し出した。

「軍師殿より、侍大将様へ、御言伝にございます」

 中野は、馬上でその封を切った。

 そこに記されていたのは、戦の采配ではなかった。


『徳川殿は敗れるでしょう。されど、中野殿の役目は、徳川殿の盾となることだけではありませぬ。

 第一に、敵将は、祝田の谷での一件で、我ら井伊の旗を過剰に警戒するでしょう。敗走の際、その恐怖心を逆手に取ることで、必ずや活路を開かれよ。

 第二に、機を見て敵の将校を捕らえ、この言葉を囁きなされ。「井伊谷には、信玄公の兵法を知り尽くした者がいる」と。

 ……これらは、戦場で散る命よりも重い、未来を創るための種にございます。ご武運を』


 中野は、その書状を読み終えると、しばし無言で空を仰いだ。

(……この男)

 彼の胸に、戦慄が走った。

(徳川方の敗北を断じ、その上で、敵将の心理までをも読み切り、敗戦すらも利用する次の一手を、すでに打っているというのか……)

 彼は、自らが、壮大な謀略の、重要な一手であることを悟った。

 彼は、書状を懐の火種で燃やし尽くすと、灰が風に舞うのを見届けた。そして、顔を上げた。

 その目には、もはや迷いはなかった。

「全軍、進め! 浜松へ!」

 彼の声は、これまでになく力強かった。

 自らの役目を、その重さを、完全に理解した将の声だった。


 浜名湖の拠点。

 旗艦「竜神丸」の櫓の上で、源次は西の空――浜松の方角が、進軍する二つの軍勢――徳川と井伊――が巻き上げる土煙で、不気味に色を変えているのを、ただ見つめていた。

(……行ってしまったか。頼んだぞ、中野さん)

 彼の本当の戦いは、彼らが無様に敗れ、この地へ逃げ帰ってくる、その瞬間から始まる。

 彼は、自らが描いた非情な脚本の、その幕開けを、ただ一人、静かに待っていた。

 源次は、傍らに控える権兵衛に命じた。

「船を出せ。全艦隊、湖上へ。……物見の始まりだ」

 海の生命線を司る、もう一つの戦場が、今、静かに動き出した。

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