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第32節『川と風』

第32節『川と風』

 夜が白む前、源次はひとり起き出して川辺に立った。

 東の空はまだ群青色に沈み、対岸の武田軍の旗も黒い影にしか見えない。

 しかし源次の目は暗がりを恐れず、むしろこの静寂の中でこそ「川の声」を聴こうとしていた。

 腰にぶら下げた木片を取り出し、先を焦がした炭で小さな印をつける。

 彼の記録は数字や図形の寄せ集めで、同僚の兵から見れば意味不明な落書きにすぎなかった。

 だが源次にとって、それは佐久間川という巨大な盤面を解き明かすための「棋譜」であった。

 「また始まったぞ、『源次様』の川見物がよ」

 「様付けで呼ばれて、すっかり軍師気取りか。ただの漁師上がりが」

 兵たちは囁き合う。

 退屈な膠着にうんざりしている彼らにとって、川ばかり見つめては板切れに何かを書き付ける源次は、格好の噂の種だった。

 「いや、不気味だ。あの目で川底の何を見ているんだか……」

 「まるであやかしに魅入られたようだな」

 嘲るような笑い声が漏れる。

 だが、その声を遮るように別の声が響いた。

 「黙れ。あの御方には、俺たちに見えぬ流れが見えておるのだ」

 以前に源次に命を救われた者たちは、その背をじっと見つめていた。

 「そうだ。犬居城の時だってそうだった。あの御方がいなければ、俺たちは今頃……」

 彼らにとって源次はただの狂人ではない。恩義と、彼の持つ不可思議な力への畏敬が、その行動に何か特別な意味を見いだそうとさせていた。

 源次は噂など気にも留めず、視線を川に注ぎ続けた。

 歴史研究家として無数の戦例を分析してきた彼にとって、戦場とは超自然的なものではなく、地形、天候、心理という変数で構成された巨大な方程式だった。その方程式を解くため、彼はただ淡々とデータを集めていた。

 昼。

 太陽が頭上に昇り、川面が白く照り返す時間。

 源次はいつもの観測点に立ち、川の水位を確認する。

 昨日と同じように杭を打ち込み、その先端に水が触れるかどうかを見る。

 「……やはり下がっている」

 数日続けた観測の末、源次は気づいた。

 この川の水位はただ雨で増減するだけではない。

 規則正しく上下し、その周期はおよそ半日。

 (漁師仲間はこれを「川の呼吸」と呼んでいた。経験則だ。だが、俺はその仕組みを理解できる)

 つまり、海の潮の干満がここまで影響している――感潮河川だったのだ。

 「この川は、海と繋がっている……」

 その事実に、背筋が粟立つ。

 潮が引いたときに現れる浅瀬、流れが弱まる瞬間。

 それは人の渡河を可能にする唯一の窓であり、勝機となる。

 夜明け前、源次はまた別の発見をする。

 空が晴れ、風が止んだ朝。川面に白い靄が立ち込めるのだ。

 兵たちはそれを「川の精が舞う」と囁き、不吉を避けて陣に籠もる。

 だが源次は違った。

 「(放射冷却……だな)」

 冷たい地面に空気が冷やされ、水分が凝結して霧となる。

 (前世の知識がなければ、俺もこれを迷信と恐れただろう。だが、これは科学だ。再現可能な自然現象にすぎない)

 晴れて風がなく、夜が明けきる直前。

 この条件が揃ったとき、濃い霧が川と陣営を覆い隠す。

 「風がなく、晴れた日の夜明け前……霧が出る」

 その現象を確認するたび、源次は木片に印を刻みつけていった。

 さらに日中、彼は風を読む。

 朝は陸から川へ、昼は川から陸へ。

 「川風」と呼ばれる規則的な風向きの変化がある。

 源次は鼻をひくつかせ、耳を澄ます。

 風は匂いを運び、音を運ぶ。

 井伊軍の焚き火の煙が川を越える時間、武田の兵士の鬨の声が聞こえる時間――漁師としての五感で得た情報を、研究家としての頭脳が分析し、風が「情報の通り道」となる瞬間を読み取った。

 「この風なら、音をかき消せる。逆に、匂いを隠すこともできる……」

 また一つ、戦場の駒が手元に揃った。

 数週間が過ぎ、源次の木片は刻印で埋め尽くされた。

 ある夜、彼は陣屋に戻ると、地面に川の略図を描き始めた。

 「ここが渡河可能な浅瀬……潮が引く大潮の干潮時に現れる」

 「そして霧……風がなく晴れた夜明け前」

 「さらに……長引く対陣で敵の警戒が最も緩むのは……」

 一つ、また一つ。

 彼の指が砂地に印を刻むたび、バラバラだった情報が論理の糸で結ばれていく。それは偶然を待つ博打ではない。必然の勝利を手繰り寄せるための、緻密な計算だった。

 やがて盤面のすべてが繋がったとき、源次の口元に不敵な笑みが浮かんだ。

 「見えたぞ……武田を喰らう道筋が」

 静寂の中に、その声だけが鋭く響いた。

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