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第319節『父との対決』

第319節『父との対決』

 鬨の声が止み、兵たちがそれぞれの持ち場へと戻っていくと、浜名湖の拠点には再び夜の静寂が訪れた。

 だが、その静寂は、昼間の訓練の熱気と、出陣を前にした昂ぶりの余韻をはらみ、心地よい緊張感に満ちていた。

 新太は、その喧騒から一人離れ、湖に面した岩の上に腰を下ろしていた。

 月明かりが、湖面に銀色の道を映し出している。その道を、彼はただ無言で見つめていた。


 昼間、兵たちの前で見せた将としての猛々しい姿は、そこにはない。

 ただ、自らの過去と、これから対峙すべき運命の重さを、一人で静かに噛みしめる、一人の若者の姿があった。

 彼の脳裏に、これから敵として戦うであろう、武田軍の記憶が蘇る。

 雪深い冬の甲斐で、凍える手で槍を握り、骨の髄まで叩き込まれた武田流の兵法。

 厳しいながらも、武士としての全てを教えてくれた師たちの顔。

 戦の後に、同じ釜の飯を食い、酒を酌み交わした仲間たちの、屈託のない笑顔。

 それら全てが、彼という人間を形作ってきた、かけがえのない過去だった。

 そして――。

 その全ての頂点に君臨する、巨大な影。

 自らを子として認めず、ただ最強の「駒」として使い続けた、父・武田信玄の姿。


(……父上)

 彼は、心の中で静かに語りかけた。

(あんたは、俺に全てを与え、そして全てを奪った。武田の血という誇りと、その血ゆえの呪いを。武士としての技と、その技を振るうべき居場所を)


 彼は、自らの掌を見つめた。

 この手は、あの人のために、幾度となく敵の血を吸ってきた。

 だが、今、この手の中にあるのは、井伊の旗。

 そして、この槍が守るべきは、井伊谷の民と、あの軍師の友だ。

(俺は、もうあんたの駒ではない)


 この戦いが、単なる井伊家のための戦いではないことを、彼は自覚していた。

 それは、武田の血に縛られてきた自らの過去と決別し、一人の将として、父という巨大な存在を、その遺産である最強の軍団を、乗り越えるための、宿命の対決なのだと。

 復讐ではない。

 憎しみでもない。

 ただ、自らが何者であるかを証明するための、避けられぬ戦い。


「父上……あんたが創り上げた最強の軍を、俺がこの手で打ち破ってみせる。それこそが、あんたの子として生まれた、俺なりの弔いだ」


 彼は、静かに、しかし燃えるような決意を胸に、立ち上がった。

 月明かりが、彼の背負う槍の穂先を、青白く照らし出す。

 その光は、まるで彼の覚悟を祝福しているかのようだった。

 彼は、もう振り返らなかった。

 自らの天幕――井伊水軍の戦闘部隊を率いる将の持ち場へと、確かな足取りで戻っていく。

 その背中には、もはや過去に囚われた若者の影はない。

 自らの運命を受け入れ、その全てを懸けて戦に臨む、真の将の姿があった。

 湖の波が、静かに、彼の決意に応えるかのように、岸辺を洗っていた。

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