第316節『海の生命線』
第316節『海の生命線』
浜名湖の拠点に張られた軍議の天幕は、湖上から吹き付ける湿った風で、わずかにはためいていた。
徳川家が決戦へと突き進む中、源次はここを第二の本陣とし、来るべき「その時」のための準備を、着々と進めていた。
彼の前には、この作戦の成否の鍵を握る二人の将――新太と権兵衛が、険しい表情で座している。卓上に広げられた海図には、浜名湖から浜松城下へと至る、幾筋もの複雑な水路が描かれていた。
「――二俣城が、落ちる」
源次は、静かに、しかし断定的に告げた。
その言葉に、新太が目を見開く。「まだ戦の最中だろう。なぜ、そこまで言い切れる」
「水の手を断たれた、とある」と源次は答えた。「城の命脈は水。それが絶たれれば、いかなる堅城も数日で落ちる。そしてその後、家康殿は、必ずや浜松から打って出るだろう。その結果……」
彼は、そこで言葉を切った。その先にある悲劇を、口にするのははばかられた。
「……そして、徳川方は敗れる。そう言いてえんだな、源次」
権兵衛が、低い声でその先を継いだ。彼の海の男としての勘もまた、同じ未来を予感していた。
源次は、静かに頷いた。
「だからこそ、俺たちが動く。徳川方が陸で敗れた時、浜松城に残された者たちにとって唯一の希望となる、『海の生命線』を、俺たちが築くんだ」
彼は、海図の一点を指し示した。
「権兵衛。お前には、この輸送船団の航路の全てを担ってもらう。武田も警戒して、罠を張るだろう。だが、この浜名湖には、奴らが知らぬ、古くから漁師だけが使う『裏の道』があることを」
権兵衛は、その言葉にニヤリと笑った。
「へっ、お見通しか。確かにあるぜ。嵐の夜にしか渡れねえ、岩礁だらけの死の道がな。だが、そこを通れと?」
「お前にならできる。この作戦の『舵』は、お前にしか握れない」
その絶対的な信頼の言葉に、権兵衛は「面白い」と、その巨体を揺らした。
次に、源次は新太へと向き直った。
「新太。お前には、その生命線を守る『槍』となってもらう」
彼の扇の先が、航路の途中に存在するいくつかの狭い水道を示した。
「敵が最後に待ち伏せるとすれば、この場所だ。戦闘部隊を率い、輸送船団に先行し、潜んでいるであろう敵の伏兵を、ことごとく叩き潰すことになる。輸送船団が通る道を、お前の槍で切り拓くんだ」
「……承知した」
新太は、短く応えた。その瞳には、友から託された重責を、必ずや果たさんとする、静かな闘志が燃えていた。
舵取りの権兵衛。
露払いの新太。
そして、その全てを後方から指揮し、天候と潮の流れを読む、源次。
三人の将は、それぞれの役目を胸に刻み、互いの顔を見合わせた。
徳川の将たちが、陸の上で誇りと意地に突き動かされている頃、この浜名湖では、敗北の先にある未来を見据えた、冷徹で、しかし確かな希望に満ちた作戦が、静かに、そして着実に形作られようとしていた。
彼らが築こうとしているのは、単なる補給路ではない。
絶望の淵に立たされるであろう盟友を救い出し、この戦の真の勝者となるための、唯一の道だった。
天幕の外で、湖の波が、まるで来るべき嵐を予感させるかのように、ざわめき始めていた。