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第315節『水面下の備え』

第315節『水面下の備え』

 浜松城が野戦準備の熱気に沸き立つ頃、井伊谷にもその衝撃的な報せが届けられた。

「――家康殿、籠城策を退け、城外での決戦を決断なされた、と」

 評定の間に響いた伝令の声に、中野直之は「なんと!」と絶句し、小野政次は蒼白な顔で天を仰いだ。同盟相手が、自ら虎の口へと飛び込もうとしている。その無謀な決断は、井伊家の将たちに深い動揺をもたらした。


 だが、その報告を聞いた源次の表情は、驚くほど静かだった。

 彼の脳裏には、すでにこの事態が予測されていた。いや、むしろ、この瞬間を待っていたとでも言うかのように。

(……ついに、賽は投げられたか)

 彼は、歴史がその最も悲劇的な一ページへと、確実に向かい始めたことを悟った。

 家康を止められなかったことへの無力感が、一瞬だけ胸をよぎる。だが、すぐにその感傷を振り払った。

(軍師として、俺が為すべきことは嘆くことではない。起こりうる最悪の未来を予測し、そのための備えを、今この瞬間に始めることだ)


 評定が散じた後、源次は直虎の私室を訪れた。

 彼の顔には、焦りの色はない。ただ、鋼のような冷徹な決意だけが宿っていた。

「直虎様。これより、井伊家は表向き、徳川様の決定に従い、陸の兵を後詰として送る準備に入ります」

「……うむ。それが盟友としての務めじゃな」

 直虎は、不安げに頷いた。

「ですが」と源次は続けた。「それと並行し、水面下で、もう一つの備えを始めさせていただきたく存じます」

 彼の視線が、壁に掛けられた浜名湖の地図へと向けられる。

「陸の戦の行方がどうなろうとも、浜松城への道を、我らが閉ざされるわけには参りませぬ。万が一、城が敵に囲まれ、陸路が完全に断たれた場合を想定し、海からの『道』を確保しておくのです」


 その言葉は、直接的に「敗北」を口にするものではなかった。だが、その裏にある意図を、直虎は正確に読み取っていた。

(この男は……すでに、徳川方の敗北後を見据えておるのか)

 彼女は、源次のその底知れない先見性に戦慄しながらも、領主として、彼の言葉に静かに耳を傾けた。

「具体的には、どうするのじゃ」

「はい。私が春より進めておりました『米の買い占め』。その米を、井伊水軍の輸送船団に密かに積み込み、浜名湖の沖合、敵に気づかれぬ島影に待機させます。そして、新太殿が率いる戦闘部隊を、その生命線の守護役として配置いたします」


 それは、陸の決戦が始まる前に、すでに籠城戦の準備を完了させてしまうという、恐るべき二手三手先の布石だった。

 直虎は、その深謀遠慮に息を呑んだ。

「……分かった。全て、そなたに任せる。必要なものは何じゃ」

「兵糧の移動を悟られぬよう、民への配給を装うための口実と……そして、この策の全てを、私一人に一任するという、直虎様からの絶対的な信頼にございます」

「許す」

 直虎は、即答した。「この井伊の全てを、そなたに託す」


 その言葉を得て、源次はすぐさま行動を開始した。

 彼は、浜名湖の拠点へと馬を走らせると、権兵衛と新太に密命を下した。

 表向きは「徳川様への兵糧献上」と「水軍の示威行動」を装いながら、その実、来るべき籠城戦のための、決死の補給作戦の準備が、水面下で静かに、そして迅速に進められていく。

 陸の戦場では、徳川家が破滅への道を突き進んでいる。

 だが、その裏で、源次はただ一人、その敗北の先にある、生き残るための未来を、着実に手繰り寄せようとしていた。

 二つの異なる時間が、同じ戦場で、同時に流れ始めていた。

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