第314節『籠城策と決戦論』
第314節『籠城策と決戦論』
浜松城の評定の間は、地獄の釜のように煮えくり返っていた。
床に広げられた地図の上には、武田の大軍を示す赤い駒が、城を包囲するかのように置かれている。その圧倒的な兵力差を前に、徳川家の命運は、今まさにこの一室で下される決断に懸かっていた。
「――重ねて申し上げまする! 籠城こそが唯一の活路にございます!」
酒井忠次のしわがれた声が、広間の熱気を切り裂いた。
「信長公へ、さらなる援軍を要請しております! それが到着するまで、この浜松城で耐え忍ぶべき! 兵の命を無駄に散らすは、将の道ではありませぬ!」
その必死の訴えに、榊原康政らも続く。「忠次殿の申される通り。敵は我らの十倍。野戦など、虎の口に自ら飛び込むがごとき愚行にございます」。
だが、その冷静な進言を、燃え盛る炎のような激情が遮った。
「臆病者どもが!」
本多忠勝が、その巨体を揺らして立ち上がった。彼の顔は怒りで赤く染まっている。
「先の戦を忘れたか! 我らが手をこまねいている間に、井伊の若造が好き放題に手柄を立ておった! 今また城に籠り、奴らが海から手柄を立てるのを、指をくわえて見ておれと申すか!」
彼の言葉は、猛将たちの心の奥底に燻っていた、井伊への嫉妬と、武人としての焦燥に火をつけた。
「そうだ!」「三河武士の武威を、今こそ見せる時!」「信玄の首は、この俺の槍で!」
決戦を望む声が、津波のように評定の間を呑み込んでいく。
その二つの嵐の中心で、家康はただ固く拳を握りしめていた。
理性は「籠城」を、感情は「決戦」を叫んでいる。
だが、彼の心を最も苛んでいたのは、別の感情だった。
(……儂は、あの男に見透かされている)
源次の、あの全てを見通すかのような目が、脳裏に焼き付いて離れない。
(ここで籠城を選べば、儂はあの男の言う通りに動いた、ただの操り人形よ。それでは、三河武士は儂についてこぬ。この徳川家は、あの若造一人に、内から食い破られるわ!)
それは、同盟相手への猜疑心であり、自らの覇権を脅かす者への、為政者としての根源的な恐怖だった。
彼は、源次の支配から逃れるために、あえて最も非合理的な道を選ぼうとしていた。
「……黙れ」
家康の低い声が、広間に響いた。
全ての怒号と進言が、ぴたりと止む。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、酒井忠次の目を真っ直ぐに見据えた。
「忠次。そなたの忠義、よう分かった。じゃが、儂は……」
彼は一度言葉を切り、決戦を望む猛将たちへと視線を移した。
「……儂は、我が家臣たちの武を信じる」
その一言が、全てだった。
忠次は、その言葉の裏にある、主君の悲壮なまでの覚悟と、破滅的なプライドを悟り、顔から血の気を失った。「殿……!」
だが、家康はもはや誰の言葉も聞かなかった。
「全軍に伝えよ! 我らは、城外に出て、武田の軍勢を迎え撃つ! 三河武士の魂、この一戦で見せてくれるわ!」
その宣言に、忠勝ら猛将たちから、地鳴りのような鬨の声が上がった。
評定は、決した。
徳川家は、自らの意志で、歴史上最も悲劇的な敗北へと、その一歩を踏み出したのだ。
広間には、狂気にも似た熱狂と、それをただ見つめるしかない者たちの、深い絶望が同居していた。