第313節『軍師の冷静』
第313節『軍師の冷静』
井伊谷城の評定の間は、浜松城から届いた報せによって、凍りつくような緊張に包まれていた。
徳川方に潜ませた間者がもたらした情報は、簡潔ながら、最悪の未来を予感させるに十分な内容だった。
「――浜松城の軍議、紛糾。家康殿、籠城策を退け、野戦での迎撃に傾きつつあり、と」
その一文が読み上げられた瞬間、評定の間にいた中野直之が、こらえきれぬといった様子で床を拳で叩いた。
「愚か者めが! あの男、源次殿の警告を、まだ戯言と思うてか!」
他の家臣たちも「もはや徳川方は当てにならぬ」「我らだけで籠城するしか道はないのか」と、不安と怒りが入り混じった声でざわめき始める。同盟相手が、自ら滅びの道を選ぼうとしている。その事実は、井伊家の者たちに深い絶望をもたらした。
だが、その喧騒の只中で、源次だけは、驚くほど冷静だった。
彼は、その報せを聞いても眉一つ動かさず、ただ静かに地図を見つめている。
(……ついに来たか)
彼の胸に渦巻いていたのは、焦りではなかった。むしろ、歴史という名の巨大な舞台の幕が、ついに上がったことへの、軍師としての静かな高揚感だった。
(歴史の流れは、一個人の知略ごときで容易く変えられるものではない。家康殿が野戦を選ぶのも、三方ヶ原で大敗を喫するのも、避けられぬ宿命。ならば……)
彼は、この危機こそが、井伊家の真価を徳川方に見せつける、またとない好機だと考えていた。
彼は立ち上がると、動揺する家臣たちを制するように、静かに、しかし力強く口を開いた。
「皆様、うろたえることはありませぬ。全ては、想定の内にございます」
その落ち着き払った声に、広間は水を打ったように静まり返った。
源次は、上座に座す直虎へと向き直り、深々と一礼した。
「直虎様。これより、井伊家の兵を二手に分けたく存じます」
「……申してみよ」
「まず、中野殿率いる陸の精鋭部隊を、浜松城への後詰として派遣いたします。彼らが敗走した際に、その退路を確保し、一人でも多くの兵を城へ逃がすための『盾』となるのです」
中野は、その言葉に目を見開いた。それは、敗戦を前提とした、あまりに冷徹な采配だった。
「そして」と源次は続けた。「私と、新太殿、権兵衛殿が率いる井伊水軍本隊は、浜名湖へ。家康殿が陸で血を流しておられる間、我らは海から、徳川方の生命線を繋ぎます」
その瞳には、すでに次の戦場の絵図が、はっきりと見えていた。
(徳川方が敗れ、浜松城が包囲される。その時、この海の道こそが、彼らにとって唯一の希望となる。陸の敗北が大きければ大きいほど、我ら水軍の価値は、絶対的なものになるのだ)
それは、盟友の敗北すらも利用し、井伊家の地位を不動のものとするための、恐るべき深謀遠慮だった。
直虎は、その策の非情さと、その裏にある確かな勝算を理解し、静かに頷いた。
「……許す。全て、そなたに任せる」
彼女は、もはやこの軍師の言葉を疑うことはなかった。
源次は、再び地図へと視線を戻した。
彼の目は、もはや浜松城を見てはいなかった。
その先にある、三方ヶ原という名の、血塗られた荒野を見据えていた。
櫓の上に立ち、三方ヶ原の方角を見つめながら、彼は静かに呟く。
「歴史の流れは変えられぬ。だが、その流れの中で、誰を救い、何を成すか。それこそが、俺の戦だ」
彼の背中には、これから始まる壮大な歴史劇の脚本家として、そしてその中で敬愛する主君を守り抜こうとする、孤独な軍師の覚悟が滲んでいた。