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第312節『浜松城の激震』

第312節『浜松城の激震』

 浜松城の評定の間は、かつてないほどの緊張と熱気に包まれていた。

 西上の報せを受け、緊急に召集された徳川家の全ての将たちが、鎧姿のまま居並んでいる。床に広げられた遠江の地図の上には、武田軍の進軍路を示す赤い駒が、まるで城を呑み込もうとする大蛇のように置かれていた。

 その光景を、上座に座す家康は、血走った目で見下ろしていた。


「――皆、聞いたな。甲斐の虎が、ついに牙を剥いたわ」

 家康の声は、怒りか、あるいは恐怖か、わずかに震えていた。

「織田の御本家からは、佐久間信盛殿を大将とする援軍三千がすでに到着しておる。じゃが、敵は三万。十倍の兵力差じゃ。……この難局、いかに乗り切るべきか。忌憚なき意見を聞かせよ」


 その言葉が終わるや否や、酒井忠次が進み出た。

「申し上げます! 敵は我らの十倍。正面からぶつかるは、あまりに無謀。ここは浜松城に固く籠もり、織田の援軍と共に守りを固め、信玄が疲れ果てるのを待つべきと存じます!」

 老練な家老の進言は、あまりに現実的で、そして正論だった。榊原康政ら、知略に長けた将たちも、その意見に静かに頷く。


 だが、その空気を断ち切るように、本多忠勝が床几を蹴立てて立ち上がった。

「なりませぬ!」

 彼の雷鳴のごとき声が、広間を震わせた。

「先の戦、我らは井伊の小僧の策に乗り、鼠のように敵の背後を突いた! 確かに勝利は得た! じゃが、あれは武士の戦ではない! 我らが三河武士の誇りは、どこへ行った!」

 彼の言葉に、大久保忠世をはじめとする猛将たちが、一斉に同調の声を上げる。

「そうだ! 城に籠って震えておるなど、末代までの恥!」「信玄と雌雄を決する、またとない好機ではないか!」「今こそ、三河武士の武威を天下に示す時!」

 彼らの胸には、三方ヶ原の緒戦での敗北の屈辱と、その後の祝田の谷での不完全燃焼な勝利への鬱憤が、マグマのように溜まっていた。今こそ、自分たちの槍で、正々堂々と武田を打ち破りたい。その熱狂が、評定の間を支配していく。


 家康は、その二つの意見の狭間で、激しく揺れていた。

 理性は、忠次の言う通り「籠城」が正しいと告げている。だが、彼の武辺者としての魂が、そして先の警告を無視したことへの焦りが、「野戦」へと心を駆り立てていた。

(ここで籠城を選べば、儂は井伊の軍師の言う通りに動いた、ただの臆病者と見られる。平八郎たちの信頼も失うやもしれぬ。……だが、野戦を選べば……)

 彼の脳裏に、源次のあの冷徹な目が浮かんだ。

『虎は、牙を研ぎ澄ませている時こそ、最も静かなものです』


(……くそっ!)

 家康は、心の中で悪態をついた。

 あの若造の顔が、自分の決断を鈍らせている。その事実が、彼のプライドをさらに傷つけた。

 彼は、その苛立ちを振り払うかのように、ゆっくりと立ち上がった。

 広間の全ての視線が、主君の最後の裁定を待って、彼一人に注がれる。

 家康の唇が、わずかに動いた。

 その一言が、徳川家の、そしてこの戦の運命を、決定づけることになる。

 広間には、息を詰めるような沈黙だけが、満ちていた。

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