第311節『西上の報』
第311節『西上の報』
元亀三年、秋。
甲斐の虎が、ついにその檻から放たれた。
武田信玄、総勢二万五千とも三万とも言われる大軍を率い、西上作戦を開始。その報せは、遠州の山々を駆け巡る疾風のごとく、遠江・三河全域を震撼させた。
街道沿いの村々は、赤備えの軍勢が通るという噂だけで恐慌に陥り、民は家財を捨てて我先にと逃げ惑う。国境の城砦は、戦う前に城主が逃亡し、次々と武田の軍門に降った。
戦国最強と謳われる軍団が放つ威圧は、刃を交える前に、人々の心を砕く力を持っていた。
その報せがもたらされた井伊谷城の評定の間は、しかし、異様なほどの静寂に包まれていた。
集まった家臣たちの顔に、恐怖の色はなかった。いや、恐怖を乗り越えた者だけが持つ、鋼のような覚悟がその顔に刻まれていた。彼らは、この日が来ることを知っていた。そして、その日に備えてきたのだ。
上座に座す直虎は、次々と舞い込む凶報にも、眉一つ動かさなかった。
彼女は、傍らに控える軍師へと、静かに視線を送る。
「……源次。そなたの読み通りであったな」
「はい。潮は、満ち始めました」
源次は、静かに応えた。
直虎は立ち上がると、居並ぶ家臣たちに向かって、凛とした声で命じた。
「皆、聞いたな! もはや迷う時ではない! これより、井伊家は軍師・源次の策に従い、籠城の備えを完成させる! それぞれ、持ち場につけ!」
「「「ははっ!!」」」
家臣たちは、一斉に頭を垂れると、乱れることなく、それぞれの持ち場へと散っていった。その動きには、もはや一片の迷いもなかった。
一方、その頃。浜松城は、全く違う種類の衝撃に揺れていた。
評定の間に駆け込んできた伝令が、震える声で告げた言葉は、城内の全ての音を奪い去った。
「――武田本隊、すでに遠江に侵入! その数、およそ三万! 先鋒は山県、馬場! 本隊には、信玄本人がおります!」
水を打ったように静まり返った広間で、家康は玉座に座したまま、凍り付いていた。
その顔から、血の気が引いていく。
(……馬鹿な)
彼の脳裏に、数ヶ月前に破り捨てた、あの書状の文面が蘇る。
『――虎は、牙を研ぎ澄ませている時こそ、最も静かなものです』
あの時、臆病者の戯言と一笑に付した言葉が、今、現実の刃となって自らの喉元に突きつけられている。
「……本当に、来たというのか。あの若造の言う通りに……」
彼の足が、わなわなと震え始めた。
慢心。油断。そして、自らの過信。
それらが招いた、致命的なまでの危機。
彼は、自らの過ちを、骨の髄まで思い知らされていた。
「殿!」
酒井忠次が、悲痛な声で主君の名を呼ぶ。
本多忠勝ら猛将たちも、顔面を蒼白にさせ、ただ立ち尽くすばかりだった。
家康は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、これまで誰にも見せたことのない、深い悔恨と焦燥に歪んだ顔で、家臣たちに向かって叫んだ。
「――軍議を開く! 今すぐにだ!」
井伊谷では静かな覚悟が、浜松では絶望的な焦りが、それぞれ城を満たしていた。
歴史の巨大な奔流が、今まさに、二つの家の運命を呑み込もうとしていた。