第310節『秋風』
第310節『秋風』
季節は、夏から秋へと、静かに、しかし確実移ろいでいた。
徳川家との溝が決定的となって以来、井伊谷はまるで巨大な嵐の中に浮かぶ小舟のように、孤立していた。それでも、源次の指揮の下、領内では来るべき国難に備える準備が、着々と進められていた。
城の蔵には、焦土作戦によって集められた米俵が山と積まれ、鍛冶場からは武具を修繕する槌音が昼夜絶え間なく響いている。浜名湖の拠点では、新太と権兵衛が率いる井伊水軍が、来るべき補給作戦に備え、荒れた湖上での過酷な訓練を繰り返していた。
井伊家は、ただ滅びを待つのではない。自らの力で、この絶望的な状況を乗り越えようとしていた。
だが、その水面下では、見えざる不安がじわじわと広がっていた。
城下の井戸端では、女たちが声を潜めて囁き合う。
「徳川様に見捨てられたというのは、まことなのかえ」「我らだけで、あの武田の大軍と戦えるのか……」
評定の間でも、一部の家臣たちが、焦燥に駆られた表情で小野政次に詰め寄っていた。
「本当に、軍師殿の読み通り、武田は来るのか。もし来なければ、この焦土作戦はただ民を苦しめただけの愚策となるぞ!」
信じてはいる。だが、信じきれない。
その揺れる心が、城全体の空気を重くしていた。
その日、井伊谷に、初めて冷たい秋風が吹き抜けた。
それは、山の木々を揺らし、収穫期を迎えた稲穂をざわめかせる、季節の変わり目を告げる風だった。
源次は、城の最も高い櫓の上に立ち、その風を全身で受けていた。
風が運んでくる匂い。乾いた土の匂い、枯れ葉の匂い、そして――遥か北の山々から運ばれてくる、雪の気配。
漁師だった頃の身体の記憶が、彼に告げていた。
甲斐の山々が、冬支度を始めている。
そして、その前に。
虎は、必ず動く、と。
(……来る)
彼の胸に、避けられぬ運命の足音が、はっきりと響いていた。
これまで頭の中の知識でしかなかった「元亀三年、秋」というXデーが、今、肌で感じる現実の脅威として、すぐそこまで迫ってきている。
彼の隣には、いつの間にか直虎が立っていた。彼女もまた、領内の不穏な空気を感じ取り、不安を隠せずにいた。
「……源次。そなたの潮読みは、本当に当たるのか。民も、家臣たちも、揺れておる」
その声は、領主としての弱さを見せる、か細い響きだった。
源次は、彼女を安心させるように、静かに、しかし力強く頷いた。
「ご安心ください。必ず、来ます。そして、我らは必ず、この谷を守り抜きます」
その揺るぎない自信に、直虎はわずかに目を見開いた。
その時だった。
櫓の下から、これまで聞いたこともないような、切迫した声が響き渡った。
「申し上げます! 申し上げます!」
物見櫓に詰めていた兵が、階段を転がり落ちるようにして駆け下りてくる。その顔は蒼白で、目は恐怖に見開かれていた。
彼は、直虎と源次の前に膝をつくと、震える声で、信じがたい報せを告げた。
「――北の国境より、狼煙! その数、およそ三十! 甲斐の武田、本隊が……! 武田信玄が、動きました!」
秋風が、二人の間を吹き抜けた。
それはもはや、季節の変わり目を告げる風ではなかった。
戦の時代の到来を告げる、血の匂いを孕んだ、嵐の始まりだった。
源次の瞳に、覚悟の炎が灯った。
ついに、来たのだ。
歴史の奔流が、この小さな谷を呑み込もうと、その牙を剥いた瞬間だった。