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第31節『膠着』

第31節『膠着』

 犬居城の戦から、幾ばくかの月日が流れた。

 戦場の血の匂いは消え、井伊谷にはいつもの農村の静けさが戻りつつあった。

 しかし、それは決して平穏ではなかった。

 傷ついた兵たちの呻き声、失われた仲間の影、そして次なる戦の気配が、城内の空気を重く押し潰していた。

 源次は城下の広場に座り込み、黙々と槍の穂先を砥いでいた。

 あの夜の無力感と、己の迷いが招いた惨劇を振り払うかのように、ただ無心に砥石を動かす。手入れの音が乾いた響きを刻んだ。

 周囲では同じく生還した兵たちが武具の補修をしているが、そこに笑い声や冗談はほとんどない。

 かつてなら、訓練の合間に誰かが声を張り上げ、酒盛りの約束を交わすような賑やかさがあった。

 今はただ、欠けた輪を埋められぬままに過ごす、不完全な日常。

 源次の胸にも、虚ろな重さが居座っていた。


 「……おい、源次」

 声をかけてきたのは若い足軽仲間だった。

 彼は槍を磨きながら、ちらりと源次を見て口を開いた。

 「この前の戦のこと、噂になってるぞ。お前さんの一隊だけ、奇跡みてぇに生き残りが多かったってな。一部の連中の間じゃ、『源次様』とまで呼ばれてるくらいだ」

 「……様、だと?」

 「ああ。あの地獄から、重傷の重吉さんまで見捨てずに帰ってきた。ありゃあ、ただの運じゃねえ。何か、俺たちにゃ分からねえ『何か』がお前さんにはあるんじゃねえかって……皆そう言ってる」

 男はそこで言葉を切り、意味ありげに肩をすくめた。

 続きは口にしなかったが、その視線が畏怖と不信を含んでいることは分かった。

 源次は黙って砥石を動かし続けた。

 その背に、仲間の視線が集まる。

 英雄と見る者、不気味な存在と遠巻きにする者。

 二つの眼差しが、常に背後に貼りついていた。


 重吉の元を訪れるのは、源次の日課になっていた。

 まだ床に伏せているが、古参兵の声にはいつもの張りが戻りつつある。

 湯気を立てる粥をすすりながら、重吉は源次に目を細めた。

 「お前さん、すっかり城内の有名人だな。様付けで呼ばれてるそうじゃねえか」

 「……俺はただ、必死だっただけです」

 「必死だったからこそだ。生き残りが少ねぇ戦で、仲間を連れて帰った。そのことが、どれほどの意味を持つか……」

 重吉は咳き込み、血の気の薄い手で布団を握った。

 「いいか源次。井伊家は今、揺れてる。負け戦で兵は減り、家中では責任の押し付け合いが始まってる。直虎様も孤立気味だ……」

 「……やはり」

 源次は眉を寄せた。

 戦場だけではなく、城内そのものが危うい。

 それを重吉は、戦場を生き抜いてきた直感で感じ取っていた。

 「お前は妙な奴だ。漁師上がりのくせに、戦の空気を読む。だからこそ……気を付けろ。お前を利用しようとする奴も、潰そうとする奴も現れる」

 重吉の言葉は、病床から放たれたとは思えない重さを持っていた。

 源次は深く頭を下げた。


 数日後、井伊谷城の広間に家臣たちが集められた。

 戦後の評定である。

 源次は末席に控え、膝を折って沈黙を守る。

 「犬居での敗北は重き傷だ。だが我ら井伊は立ち直らねばならぬ」

 直虎が声を張る。

 しかし、その声には以前の覇気がない。

 両脇に控える家臣たちは互いに視線を避け、重苦しい沈黙が漂った。

 やがて中野直之が立ち上がり、声を荒げた。

 「我らが敗れたのは、備えが足りなかったからにございます! 次は武田の侵攻に備え、兵糧をかき集め、徹底して籠城の構えを取るべきと存じます!」

 「しかし兵が足らぬ。籠城は持久の策だ。数に勝る武田相手では、城を枕に討ち死にするほかあるまい」

 別の家老が異を唱え、すぐに口論となる。

 やがて議論は「誰が責任を負うべきか」へと逸れ、互いに非をなすりつけ合うだけの不毛な応酬に変わっていった。

 源次は俯き、唇を噛んだ。

 (駄目だ……このままではじり貧になるだけだ。受け身の戦いでは……また仲間を失う……)


 その時、伝令が駆け込んだ。

 「申し上げます! 武田勢、佐久間川に陣を張り、我らを睨んでおります!」

 広間にざわめきが走る。

 再びの出陣が決まった。


 佐久間川。

 春の雪解け水を集めたその川は、幅広く、浅瀬と深みが入り混じって流れていた。

 両岸には急ごしらえの陣幕が並び、武田と井伊の旗が風に揺れる。

 源次もまた、陣に加わり、日々を川のほとりで過ごしていた。

 川を挟んでの対陣――互いに動けず、ただ睨み合いが続く。

 敵が攻めこなければ、こちらも攻められない。

 長い沈黙が続き、兵たちは倦怠に包まれていた。

 見張りの交代、簡素な炊き出し、槍の素振り。

 それだけの繰り返し。

 退屈に耐えかねた兵は賭け事に興じ、あるいは川に網を入れて魚を取った。

 しかし、その和やかさの裏には、いつ矢が飛んでくるか分からぬ緊張が常に潜んでいる。


 源次は、毎日のように川岸に立った。

 槍を杖代わりに、じっと川を見つめる。

 流れの速さ、渦の位置、風向き、対岸の地形。

 一つ一つを目に焼き付け、頭の中で組み立てていく。

 (歴史という地図はもう信じられない。だが、目の前にある地形と水の流れは、嘘をつかない。漁師として培ったこの眼だけが、今の俺の武器だ。敵が見ていないものを、俺は見つけ出す……!)

 背後から囁く声がした。

 「見ろよ。『源次様』はまた川と睨めっこだ。俺たちにゃ見えねえ何かが、あの人には見えてるのかね」

 仲間の呟きが耳に入った。

 嘲りとも畏れともつかぬ声。

 だが源次は振り返らなかった。

 川の流れの中に、確かに答えがある。

 彼はそれを見出すために、この膠着の時を利用していた。

 (嵐の前の静けさだ……。この静寂を破るのは、俺だ……!)

 川の音が、心臓の鼓動と重なって聞こえた。

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