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第309節『最後の警告』

第309節『最後の警告』

 直虎の決断一下、井伊谷の空気は一変した。

 夏の終わりを告げる涼やかな風が吹き始める中、領内は戦を前にした、静かで、しかし熱を帯びた緊張感に包まれた。先の評定で示された源次の周到な計画と、直虎の揺るぎない覚悟を前に、もはや反対の声を上げる家臣はいなかった。

 中野直之の指揮の下、兵たちは村々を回り、秋の収穫を待たずして、実り始めた稲穂や蔵の穀物を城へと運び込み始めた。民もまた、領主の覚悟に応え、自らの手で田畑から食料を運び出し、来るべき籠城戦に備えた。それは、奪われる「徴発」ではなく、共に戦うための「備蓄」であった。


 その異様なまでの準備の徹底ぶりは、当然、浜松城の徳川の間者の耳にも入った。

「――井伊家、領内の兵糧を全て城へ運び込み、徹底した籠城態勢に入った模様。まるで、我らを見捨て、単独で冬を越すつもりのようにございます」

 その報告に、浜松城の評定の間は、冷ややかな怒りに包まれた。

「裏切り者め!」「我らが野戦の準備を進めているというのに、勝手な真似を!」「同盟の誓いを忘れたか!」

 徳川の将たちは、井伊家の行動を、同盟相手への明確な裏切りと受け取った。


 その怒りの渦の中心で、家康はただ黙って地図を睨んでいた。

 彼の胸に渦巻いていたのは、裏切られたことへの怒りだけではなかった。

(……あの男か。また、あの源次という男の仕業か)

 井伊家の動きが、自らの野戦計画を真っ向から否定し、そして自らの慢心を見透かしているかのような警告であることに、彼は気づいていた。その事実が、彼の武辺者としてのプライドを、容赦なく傷つけた。


 その家康の元へ、井伊家からの使者が到着した。

 源次が認めたその書状は、丁重な言葉で井伊家の行動への理解を求めつつ、その末尾に、短い、しかし刃のように鋭い一文が添えられていた。


『――虎は、牙を研ぎ澄ませている時こそ、最も静かなものです。我らは、徳川様の背後を守るために備えております。どうか、ご油断めされぬよう』


 その一文を読んだ瞬間、家康の中で抑えつけていた何かが、ついに爆ぜた。

「―――っ!!」

 彼は無言のまま立ち上がると、その書状を、怒りに任せてびりびりと引き裂いた。

 紙片が、雪のように宙を舞う。

 広間が、水を打ったように静まり返った。


「……臆病者が」

 家康の喉から、地を這うような低い声が漏れた。

「井伊の軍師は、戦の勝ち負けを知っておるやもしれぬ。じゃが、戦の『機運』というものを、全く分かっておらぬわ!」

 彼は、居並ぶ家臣たちに向かって、高らかに宣言した。

「もはや、井伊の言葉に耳を貸す必要はない! 我らは我らの道を行く! この機を逃せば、先の敗戦の雪辱は果たせぬ! 全軍、野戦の準備を急がせよ!」

「おおっ!」と、徳川の将たちから、待っていましたとばかりの鬨の声が上がる。


 使者は、青ざめた顔でその光景を見つめるしかなかった。

 両家の間にあった、か細い信頼の糸は、今、家康自らの手によって、完全に断ち切られたのだ。

 その報せが井伊谷に届いた時、源次は櫓の上にいた。

 彼は、家康が書状を破り捨てたと聞いても、驚かなかった。

(……やはり、か)

 彼は、ただ静かに、西の空を見つめていた。

(あの人のプライドを、俺は傷つけすぎた。もう、俺の言葉は届かない。ならば……)

 彼の胸を、どうしようもない無力感が締め付けた。

 だが、それはすぐに、別の感情へと変わった。

(ならば、俺は俺のやり方で、この谷を、そしてあの人を守るしかない)

 彼の瞳には、もはや同盟相手への期待はない。

 ただ、自らが信じる唯一の道を、独りで歩む覚悟だけが、静かに、そして強く宿っていた。

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