第308節『直虎の決断』
第308節『直虎の決断』
夏の暑さが残る評定の間には、いつになく張り詰めた空気が満ちていた。
源次の鬼気迫る訴えを受け、直虎が緊急に招集したこの評定は、井伊家の未来を左右する、重大な決断の場となろうとしていた。家臣たちは、ただならぬ雰囲気を感じ取り、固唾をのんで主君の言葉を待っていた。
上座に座す直虎は、集まった家臣たちの顔を一人ひとり見渡すと、静かに、しかし鋼のような響きで口を開いた。
「皆に聞いてもらいたい儀がある。――我が軍師・源次の読みによれば、この秋、武田は我らの想像を絶する大軍をもって、この遠江に攻め寄せてくる」
広間が、わずかにどよめいた。
「徳川様は、これを小競り合いの延長と見ておられる。じゃが、源次の潮読みは、これまで一度として外れたことはない。わらわは、彼の言葉を信じる」
彼女は、一度言葉を切ると、全ての反発を覚悟の上で、その決断を告げた。
「よって、井伊家は、徳川様の意向とは別に、これより領内全域において、籠城の備えに入る! 秋の収穫が終わり次第、ただちに領内の村々から全ての兵糧を城内および安全な拠点へと運び込み、徹底した焦土作戦の準備を断行する!」
その言葉が落ちた瞬間、評定の間は爆発した。
「なりませぬ!」「正気でございますか!」
家臣たちの顔から血の気が引き、悲鳴にも似た反対の声が渦を巻く。
その先頭に立ったのは、意外にも中野直之だった。
「直虎様! お言葉ですが、それはあまりに早計にございます! 昨年ならいざ知らず、今は徳川様との固い盟約がある。我らが勝手に籠城の備えなどすれば、徳川様はどう思われるか! 『井伊は戦う気がない臆病者の集まりだ』と、我らの武威を侮り、同盟に亀裂が入りかねませぬ!」
彼の懸念は、徳川との関係悪化を恐れる、侍大将としてのあまりに正当なものだった。
小野政次も続く。「それに、民の負担も計り知れませぬ。まだ来るとも分からぬ戦のために収穫物を全て召し上げれば、領内は大混乱に陥りましょう!」
その反発の嵐の中、源次が静かに立ち上がった。
「皆様の懸念、ごもっとも。ですが、手は打ってあります」
彼は、小野政次が管理する帳簿の一冊を広げた。
「この半年の間、我らが買い占めた米の量は、井伊谷の年貢の二年分に達しております。民から兵糧を城へ移す代わりに、この米を安価で分け与えれば、彼らの暮らしを脅かすことはございません。むしろ、戦の危険から遠ざけ、安全を確保することができるのです」
その周到な準備に、小野は息を呑んだ。
源次は、次に中野へと向き直った。
「中野殿。徳川様は、野戦での勝利に自信を持っておられる。それは、我らにとっても好都合。我らが領地を固く守り、武田の進軍をわずかでも遅滞させることができれば、その間に徳川様は万全の態勢を整えることができる。これは徳川様への裏切りではございません。盟友として、背後を完全に固めるという、最大の支援にございます」
そして、彼は最後に、この策の真の目的を告げた。
「それに……兵糧なき空の村を、虎は果たして襲いましょうか。我らが領地を空にして引きこもれば、武田は我らを無視し、真っ直ぐに浜松を目指すやもしれぬ。戦わずして、この谷を戦火から守る。それこそが、この策の真の狙いにございます」
その、あまりに合理的で、かつ民と徳川への配慮まで行き届いた深謀遠慮に、中野たちも反論の言葉を失った。
だが、それでもなお、家中には「徳川の意向を無視してよいのか」という不安の空気が残っていた。
その空気を断ち切ったのは、直虎の、領主としての一喝だった。
「――良いか!」
彼女は立ち上がっていた。その小さな身体から、誰もが気圧されるほどの覇気が放たれる。
「わらわは、誰よりもこの井伊谷の民を信じておる。そして、誰よりも源次の知略を信じておる。この決断が、たとえ徳川様の不興を買うことになったとしても、わらわは民の命を守る道を選ぶ! 全ての責は、この井伊直虎が負う!」
その絶対的な覚悟を前にして、もはや誰一人、異を唱える者はいなかった。
家臣たちは、自らの主君の器の大きさを改めて思い知り、深々と、その場に平伏した。
井伊家は、徳川という巨大な同盟相手とは別に、自らの判断で、独自の道を歩み始めることを決断したのだ。
その決断が、やがて来るべき歴史の奔流の中で、いかなる意味を持つことになるのか。
答えを知る者は、この評定の間で、ただ一人しかいなかった。