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第307節『軍師の焦燥』

第307節『軍師の焦燥』

 季節は、夏。

 浜名湖の拠点は、燃えるような陽光と、兵たちの訓練が発する熱気で満ちていた。井伊水軍は、新太と権兵衛という二人の将の下、着実にその力を増している。海の道は開かれ、井伊谷の蔵には少しずつ富が蓄えられ始めていた。全てが、源次の描いた絵図の通りに進んでいるかのように見えた。


 だが、その絵図を描いた張本人である源次の心だけは、夏の暑さとは質の違う、焦燥の炎に焼かれていた。

 彼の元には、浜松城に潜ませた間者から、徳川家の動向が定期的に届けられていた。

「――家康殿、先の小競り合いでの勝利に気を良くし、『信玄もはや恐るるに足らず』と、野戦に向けての軍備を密かに整え始めておられる由」

 その一文を読むたびに、源次のこめかみに青筋が浮かんだ。

(……あの人は、何も学んでいないのか)

 彼の脳裏には、歴史書に記された、あの三方ヶ原での惨劇が、鮮明に焼き付いている。

(信玄は、わざと負けているんだ。敵を油断させ、最も得意な野戦の土俵へと引きずり出すために。家康は、その掌の上で気持ちよく踊らされているだけだ。秋になれば、虎は必ず牙を剥く。その時、この慢心は……徳川家を、そして我ら井伊家をも滅ぼす引き金になる……!)


 彼は、何度も直虎を通じて徳川へ警告の書状を送った。だが、返ってくるのは「井伊の軍師は用心深すぎる」という、侮りに満ちた言葉だけ。

 その日、源次はついに、井伊谷城の直虎の私室を訪れていた。

 彼の顔には、これまでにないほどの切迫した色が浮かんでいた。


「直虎様。もはや一刻の猶予もございません。家康殿は、確実に破滅への道を歩んでおられます」

 その鬼気迫る様子に、直虎は息を呑んだ。

「……源次。そなたの焦りは分かる。じゃが、我らは盟友なれど、徳川家の軍略に口を挟む権限はない。これ以上の進言は、かえって家康殿の心を頑なにさせるだけやもしれぬ」

 それは、領主としての冷静な判断だった。


「ですが、このままでは!」

 源次は、思わず声を荒げた。そして、はっと我に返り、己の無礼を詫びるように膝をついた。

「……申し訳、ございません。ですが、私には見えるのです。この先に待つ、血の海が……」

 彼は、自らの知識の源泉を明かすという最大の禁忌を犯す寸前で、必死に言葉を呑み込んだ。

(言えない。史実を知っているなどと、言えるはずがない。だが、このままでは……!)

 彼の胸を、どうしようもない無力感が締め付けた。

 自分だけが知っている未来の悲劇。それを、誰にも信じてもらえない。その孤独が、彼の冷静さを奪っていた。


 直虎は、その苦悩に満ちた横顔を、静かに見つめていた。

 彼女は、源次の知略が人知を超えていることを知っている。そして、彼のこの常軌を逸した焦りが、ただの杞憂ではないことも、肌で感じていた。

(この男が、これほどまでに取り乱すとは……。よほどのことが、起きるというのか)

 彼女は、自らが為すべきことを、静かに悟り始めていた。

 源次をこれ以上、一人で苦しませてはならない。そして、彼の見る未来を、信じねばならない。たとえ、それが家臣たちの反発を招くことになったとしても。


「……源次」

 直虎の声は、静かだったが、鋼のような響きを持っていた。

「そなたの焦り、よう分かった。……ならば、動かねばなるまい。徳川が動かぬなら、我らだけでも動く。この井伊谷を、そしてそなたを守るために」

 その言葉に、源次ははっと顔を上げた。

 直虎の瞳には、もはや迷いはなかった。領主として、自らが信じる軍師と共に、この国難に立ち向かうという、揺るぎない決意の光が宿っていた。

 源次の焦りは、彼女に伝わったのだ。そして、その焦りが、今、井伊家そのものを動かそうとしていた。

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