第306節『新太の成長』
第306節『新太の成長』
徳川との間に漂う不穏な空気とは裏腹に、浜名湖の井伊水軍拠点は、熱気に満ちていた。
源次が描いた未来図は、着実に現実のものとなりつつあった。権兵衛率いる偵察部隊は、この数ヶ月で浜名湖周辺に巣食っていた小規模な水賊をことごとく掃討。その圧倒的な練度の前に、賊たちは戦う前に降伏するか、散り散りになって逃げ去るしかなかった。これにより、湖の治安は劇的に改善された。
そして先日、ついに試験的に派遣された商船が、尾張・熱田湊との往復に成功したとの報せが届いた。まだ小規模な取引だが、源次が予言した通り、井伊の木綿は驚くほどの高値で取引され、莫大な利益がもたらされた。海の道は、確かに富を生み始めていた。
だが、源次の真の狙いは、その先にある。
彼は今、湖上に浮かぶ旗艦「竜神丸」の櫓の上から、眼下で繰り広げられる大規模な模擬戦を見守っていた。
新太が率いる戦闘部隊と、権兵衛が率いる偵察部隊。二つの部隊が、紅白に分かれて湖上で激しく火花を散らしている。
「権兵衛殿の動きが速い! 囲まれますぞ、新太様!」
弥助が焦りの声を上げる。権兵衛の部隊は、個々の船がまるで魚の群れのように自在に動き、巧みに新太の船団の側面や背後を取ろうとする。海の戦を知り尽くした、老練な戦術だった。
だが、新太は動じなかった。
「慌てるな。奴らは散開しすぎている。一点を突けば、必ず崩れる」
彼は、陸の戦で培った兵法の常識を、この海の上で応用しようとしていた。
「全船、密集せよ! 魚鱗の陣だ! 敵の攻撃を中央で受け止め、左右に受け流せ!」
新太の号令一下、彼の船団は亀の甲羅のように固い密集陣形を組む。権兵衛の部隊が仕掛ける波状攻撃を、その分厚い陣形でことごとく弾き返していく。
「……面白い」
櫓の上で、源次は静かに呟いた。
やがて、しびれを切らした権兵衛の部隊の一隻が、陣形を崩して深追いしてきた。
その一瞬の隙を、新太は見逃さなかった。
「今だ! 陣を開け! 突出した敵船を呑み込め!」
魚鱗の陣は、まるで巨大な口を開けるかのように一瞬だけ開き、突出してきた敵船をその懐深くに引きずり込んだ。そして、再び陣を閉じる。袋の鼠となった敵船は、四方八方からの集中攻撃を受け、あっという間に白旗を上げた。
陸の「集団戦術」と、海の「機動力」。その二つを融合させた、全く新しい艦隊戦術が生まれた瞬間だった。
演習が終わった後、権兵衛は、悔しげに、しかしどこか嬉しそうに新太の肩を叩いた。
「……参ったぜ、若いの。あんたの戦は、俺の知ってる海の戦とはまるで違う。だが、理に適ってやがる。これなら、武田の水軍相手でも戦えるかもしれねえな」
その言葉には、海の古強者が、陸から来た若き天才の才能を完全に認めた、という響きがあった。
「いや」と新太は首を振った。「あんたの神業のような操船術があってこそだ。俺には、まだ海の声が聞こえん。もっと教えてくれ、権兵衛殿」
二人の間には、年の差を超えた、師弟のような固い絆が芽生えていた。
井伊水軍は、二人の天才によって、唯一無二の戦闘集団へと変貌を遂げつつあった。
源次は、その光景を満足げに見つめていた。
(これでいい。これで、来るべき戦に備えられる)
彼の胸に、確かな手応えが宿る。
だが、その安堵は、長くは続かなかった。
水平線の彼方、浜松城のある方角の空が、彼の目にはどこか不吉な色を帯びて見えた。
井伊が力を蓄える一方で、同盟相手である徳川は、確実に破滅への道を歩んでいる。その事実が、彼の心を重く曇らせていた。