第304節『海の道の開拓』
第304節『海の道の開拓』
評定の間は、源次が示した「米の買い占め」という、あまりに斬新な経済戦略の衝撃に、まだどよめいていた。家臣たちは、戦の勝敗が槍働きだけで決まるのではないという、新しい時代の到来を肌で感じ、畏怖と興奮が入り混じった表情で軍師の次の言葉を待っていた。
源次は、その空気の変化を確かめると、評定の間の壁に掛けられた、浜名湖から伊勢湾までを含む広域の地図を、静かに指し示した。
「……そして直虎様。陸の備えと並行し、我らにはもう一つ、開拓すべき戦場がございます」
家臣たちの視線が、一斉に地図へと注がれた。
「陸の道を米で塞ぐのであれば、我らは海に、新たな道を作るのです。来るべき籠城戦において、海からの補給路こそが、井伊家と、そして浜松城の徳川家の生命線となります」
源次は、集まった将たち、特に権兵衛と新太へと向き直った。
「権兵衛殿。あなたには、井伊水軍の『富』を生み出す役目を担っていただく」
彼は、浜名湖から遠州灘を経て、尾張の熱田湊へと至る航路を、扇の先で力強く示した。
「我らが誇る木綿を、熱田の市へ運ぶのです。織田様の領地であるあそこでは、我らの木綿は数倍の値で取引される。その富で、我らは鉄砲を買い、兵を養う。この交易路こそが、井伊家の新たな金脈となります。あなたには、その道中の水賊を掃討し、安全な航路を確立していただきたい」
権兵衛は、その壮大な構想に目を見開いた。ただの漁師働きではない。国そのものの富を創り出すという大役に、彼の海の男としての血が騒いだ。「へっ、面白え。任せときな、軍師様。日の本一安全な道を作ってご覧にいれる」
次に、源次は新太へと視線を移した。
「新太。お前には、その金脈を守る『牙』となってもらう」
「……牙、だと?」
「そうだ。交易で得た富で、我らは船をさらに増強する。そして、新たな武装を研究開発する。大筒、焙烙火矢、そして鉄甲船の構想……。お前には、その新しい力を用いて、井伊水軍をただの輸送船団ではない、日の本最強の戦闘集団へと鍛え上げてもらう。我らの海に手出しする者がいれば、容赦なくその牙で食い破れ」
新太は、黙って頷いた。その瞳には、自らの武勇が、井伊家の未来を切り拓くための力となることへの、静かな、しかし燃えるような誇りが宿っていた。
陸の米買い占め(守り)と、海の道開拓(攻め)。
二つの壮大な計画が同時に動き出し、井伊家は本格的な富国強兵へと突き進んでいく。家臣たちは、もはや源次の言葉に疑念を挟む者はいなかった。ただ、その底知れない構想力に圧倒されるばかりだった。
評定が終わり、皆がそれぞれの持ち場へと散っていく中、源次は一人、地図の前で佇んでいた。
彼の視線は、熱田湊の、さらにその先の海――京の都へと繋がる、堺の港――を、静かに見据えていた。
(熱田との交易は、始まりに過ぎない。本当の富と情報は、あの堺にこそある。いつか、必ずこの道を拓く。それが、この乱世の最終局面で、直虎様が生き残るための、最後の切り札になるはずだ)
それは、まだ誰にも語っていない、彼の胸の内にだけ秘められた、さらに壮大な未来への布石だった。
彼の本当の戦いは、まだ始まったばかりである。