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第303節『米の買い占め』

第303節『米の買い占め』

「皆様。私が提案するのは、ただの倹約ではございません。この富を使い、我らはもっと大きな賭けに出るのです」


 源次のその一言に、紛糾していた評定の間が水を打ったように静まり返った。

 家臣たちの訝しげな視線が、彼が広げた一枚の紙へと注がれる。

 そこには、米俵の絵と、矢印、そして素人目には意味の分からぬ数字が、びっしりと書き込まれていた。


「これより、我らは商人となります」

 源次は、静かに、しかし力強く宣言した。

「この鹵獲した富を『種銭』とし、来る春までに、遠江・三河中から、市場に出回る余剰米を、根こそぎ買い占めるのです」


 そのあまりに突飛な言葉に、家臣たちは呆気にとられ、言葉を失った。

「……米を? 買い占める?」

 最初に我に返った小野政次が、信じられないという声で問い返す。

「左様にございます」と源次は頷いた。「武田が動けば、数万の大軍がこの地を通る。兵糧は現地で徴発するのが奴らの常套手段。ですが、もしその時、この地に一粒の米も残っていなかったとしたら、どうなりましょうか」


 その言葉の意味を理解した瞬間、評定の間に戦慄が走った。

「……敵は、飢える」

 中野直之が、呻くように呟いた。

「その通り」と源次は続けた。「戦う前から、敵の腹を空かせる。これこそが、小国である我らが大軍に抗うための、最初の兵糧攻めにございます。刃を交えずして、敵の力を削ぐのです」


 だが、小野政次は即座に現実的な反論を口にした。

「お待ちくだされ! それはあまりに危険な賭け! もし武田が来なければ、我らはただ無駄に米を抱え、財を失うだけ! 家は破産いたしますぞ!」

「いえ、決して無駄にはなりませぬ」

 源次は、その反論を待っていたかのように、計画の第二段階を明かした。

「もし武田が来ずとも、戦の噂だけで米価は必ず高騰します。その時、我らが買い占めた米を市場に放てば、買い値の数倍の利ザヤが生まれる。戦わずして、我らの富はさらに増えるのです。武田が来れば兵糧攻めとなり、来なくとも我らの財源となる。どちらに転んでも、我らに損はない策にございます」


 その、戦を「商い」として捉え、リスクヘッジまで完璧に計算された恐るべき経済戦略に、小野政次は言葉を失った。彼の頭の中では、そろばんが目まぐるしく動き、その策が生み出すであろう莫大な利益と、敵に与えるであろう計り知れない損害を弾き出していた。彼の顔から、血の気が引いていく。これはもはや、武士の戦ではない。金の力で敵を殺す、商人の戦いだ。

「……恐ろしいことを、考えるものよ」


 中野直之もまた、その策の真の恐ろしさを悟り、静かに身震いしていた。

(……これが、この男の戦か。槍働きで手柄を立てることだけを考えていた儂とは、見ている盤面が、次元が違う。血を流す前に、敵の腹の虫で戦意を殺ぐとは……)

 彼らは、源次の提案を、もはや反対することなどできなかった。

 その圧倒的なまでの論理と、先見性の前に、ただ感服し、従うしかなかった。


 直虎は、その全てを、上座から静かに見届けていた。

 彼女は、家臣たちが完全に納得したのを確認すると、静かに、しかし力強く宣言した。

「……よかろう。源次の策、採用する。小野、そなたに命ずる。源次と連携し、この計画、滞りなく遂行せよ」

「……ははっ!」

 小野政次は、武者震いを抑えながら、深く頭を垂れた。


 陸の戦における、見えざる戦支度は、こうして始まった。

 だが、源次の視線は、すでに次の戦場へと向けられていた。

 彼は、評定の間の壁に掛けられた、浜名湖の地図を、静かに指し示した。

「……そして直虎様。陸の備えと並行し、我らにはもう一つ、開拓すべき戦場がございます」

 その言葉に、家臣たちの視線が、一斉に地図へと注がれた。

 源次の口元に、かすかな、しかし確信に満ちた笑みが浮かんでいた。

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