第302節『富の使い道』
第302節『富の使い道』
冬の陽光が障子越しに差し込む評定の間は、珍しく和やかな空気に包まれていた。
武田の脅威は雪に閉ざされた山の向こうに遠のき、村櫛党討伐で得た莫大な富は、家臣たちの心に確かな余裕をもたらしていた。議題は、その富の使い道。誰もが、この勝利の果実をいかにして分かち合うか、期待に胸を膨らませていた。
「まずは、此度の戦で功のあった者たちへの褒賞であろう!」「いや、傷んだ城壁の修復こそが急務!」「領民たちへの施しも忘れはなりますまい!」
家臣たちが口々に意見を述べる。そのどれもが、井伊家の未来を思う前向きな言葉だった。直虎もまた、その光景を満足げな笑みで見守っていた。
だが、その和やかな空気を切り裂くように、一つの静かな声が響いた。
「お待ちください」
源次だった。
彼は、居並ぶ家臣たちの前に進み出ると、深々と一礼し、そして予想だにしない言葉を口にした。
「その富は、今、一文たりとも使うべきではございません」
広間が、水を打ったように静まり返った。
家臣たちは、自分たちが聞き間違えたのではないかと、互いに顔を見合わせる。
源次は、その困惑を意に介さず、冷徹なまでの声で続けた。
「鹵獲した金銀、米、塩、その全てを軍資金として備蓄し、来るべき国難まで『塩漬け』にすることを提案いたします」
その言葉が意味するものを理解した瞬間、広間は爆発した。
「何を馬鹿なことを!」「勝利の功に報いぬと申すか!」「兵たちの士気に関わるわ!」
怒号が渦を巻く。その中でも、最も強く反発したのは、先の戦で源次の策の恩恵を最も受けたはずの男たちだった。
「源次殿!」
中野直之が、信じられないという顔で立ち上がった。
「兵たちは、命を懸けて戦ったのだ! その働きに報いるのが、大将としての務めではないのか! それを塩漬けとは、あまりに非情!」
「そうだぜ、軍師様!」と、評定に陪席していた権兵衛も続く。「俺の手下どもも、あんたを信じて荒波に飛び込んだんだ。少しぐらい、美味い酒を飲ませてやるのが筋ってもんだろう!」
兵の命を預かる将として、民の暮らしを預かる頭領として。彼らの反発は、私欲から来るものではなく、部下を思うが故の、あまりに正当なものだった。
源次は、一瞬にして家中で孤立した。
「皆様のお気持ち、痛いほど分かります」
源次は、その全ての反発を、静かに受け止めた。
「ですが、考えてもみてください。この冬を越せば、甲斐の虎は必ず動きます。その時、我らが今この富で小さな満足を得てしまえば、本当に戦うべき時に、兵糧も金も尽き果てていることになりましょう」
彼の声は、熱に浮かされた家臣たちに冷や水を浴びせるように、冷静だった。
「今は、耐える時なのです。この勝利に浮かれることなく、来るべき本当の戦に備える。それこそが、皆の命を、そしてこの井伊谷を守る、唯一の道だと心得ます」
だが、その正論は、勝利の熱狂の中ではあまりに冷たく響いた。
家臣たちの反発は収まらず、評定は再び分裂の危機に瀕する。
直虎は、唇を噛みしめていた。源次の言うことの正しさは、彼女が一番よく分かっていた。だが、家臣たちの気持ちもまた、痛いほど分かる。
領主として、今、どちらの道を選ぶべきか。
彼女が、重い決断を下そうと口を開きかけた、その時。
源次は、懐から一枚の紙を取り出した。
それは、富をただ蓄えるだけではない、その富を「種銭」として、さらに大きな力へと変えるための、次なる一手を示した計画書だった。
「皆様。私が提案するのは、ただの倹約ではございません。この富を使い、我らはもっと大きな賭けに出るのです」
その言葉に、家臣たちは訝しげに視線を向ける。
源次の口元に、かすかな、しかし確信に満ちた笑みが浮かんだ。
彼は、この反発すらも計算のうちだったのだ。
評定の空気が、再び変わろうとしていた。