第301節『それぞれの冬』
第301節『それぞれの冬』
井伊谷に、静かな冬が訪れていた。
村櫛党を打ち破った祝宴の熱狂も今は遠く、山々は枯れ葉を落とし、畑には霜が降りている。領民たちは、嵐のような戦が終わったことに安堵し、それぞれの家で囲炉裏を囲み、穏やかな日々を過ごしていた。戦の傷跡はまだ癒えぬが、鹵獲した豊富な米と塩のおかげで、この冬、飢えに苦しむ者は一人もいない。それは、この谷が長らく忘れていた、かけがえのない平穏だった。
その平穏を、それぞれの将が、それぞれの場所で噛みしめていた。
城下の道場では、中野直之が若い兵たちに稽古をつけていた。木刀の音が乾いた冬の空気に響く。彼の指導は以前にも増して厳しかったが、その目には確かな自信と、未来を担う者たちを育てるという責任感が宿っていた。
浜名湖の拠点では、権兵衛が新参の船大工たちに、湖の潮の流れを教えていた。「理屈じゃねえ、肌で覚えろ!」その怒声は変わらぬが、彼の顔には海の民を一つに束ねる頭領としての風格が漂う。
そして、山間の隠れ里では、新太が弥助たちと共に、静かに槍を磨いていた。彼はもう焦ってはいない。来るべき戦の時に備え、ただ黙々と牙を研いでいる。その背中には、井伊の将としての落ち着きがあった。
だが、その誰もが感じていた。この平穏が、永遠に続くものではないことを。
そして、その平穏を守るために、水面下で一人、動き続けている男がいることを。
その男――源次は、城の奥にある自らの私室に籠っていた。
彼の部屋は、もはやただの寝所ではない。壁には浜名湖から遠江、三河に至る巨大な地図が張り巡らされ、床には各地から集められた情報の断片――米の相場、街道の様子、徳川家の兵の配置――が記された木札が、無数に散らばっている。
彼はその中央に座し、まるで神が盤上を眺めるかのように、それらの情報を組み合わせ、思考を巡らせていた。
彼の脳裏には、ただ一つの年号が刻まれている。
「元亀三年、秋」
武田信玄が動く、運命の時。
残された時間は、一年もない。
(金、人、そして情報。村櫛党から得た全てを、この冬の間に、最強の武器へと変える。そして、春が来たならば……)
彼は筆を取り、白い紙の上を滑らせ始めた。
そこに記されていくのは、評定の間に提出するための、壮大な計画の第一歩。
この井伊谷に訪れた束の間の平穏を、揺るぎない力へと変えるための、具体的な方策。
そして、その計画の根幹をなすのは、あの鹵獲した莫大な富の、真の使い道だった。
「……そろそろ、皆にも覚悟を決めてもらわねばなるまい」
源次は、誰に言うでもなく呟いた。
彼の視線は、評定の間がある方角へと向けられていた。
穏やかな冬の日に、再び嵐を呼ぶことになるかもしれない。だが、彼は覚悟していた。
この平穏を守るためには、今、動かねばならないのだ、と。
次なる評定の場で、彼は井伊家の未来を賭けた、新たな提案を行おうとしていた。