第300節『嵐の前の潮目』
第300節『嵐の前の潮目』
井伊谷は、束の間の平穏に包まれていた。
村櫛党討伐の勝利は、領民たちに確かな安堵と、未来への希望をもたらした。徳川家からの正式な支援の約束は、その希望をさらに確かなものとし、城下は冬支度を進める人々の活気に満ちている。井伊水軍は、鹵獲した船と新たに加わった海の男たちを得て、その規模と練度を日ごとに増していた。
全てが、順調に進んでいるかのように見えた。
その日の夕暮れ。
源次は、井伊谷城で最も高い櫓の上に、一人で立っていた。
眼下には、夕陽に染まる黄金色の里山が広がり、家々からは夕餉の支度をする煙が立ち上っている。子供たちのはしゃぐ声が、風に乗ってかすかに聞こえてきた。
彼の隣には、いつの間にか直虎が立っていた。彼女もまた、その穏やかな光景を、愛おしげに見つめている。
「……良い景色じゃな、源次」
ぽつりと、直虎が呟いた。
「そなたが、この谷にもたらしてくれた平穏じゃ」
「いえ」と源次は静かに首を振った。「これは、直虎様が、そしてこの谷に生きる全ての者たちが、自らの手で掴み取ったものにございます」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、直虎だった。
「……浜松からの報せは、おぬしも聞いたか。家康殿は、我らを『真の盟友』として認めてくださった。酒井殿とのやり取り、見事であったぞ」
その声には、心からの信頼と、そしてわずかな憂いが滲んでいた。彼女もまた、徳川という巨大な隣人が、自分たちの力を認めると同時に、その力を警戒し始めたことを、肌で感じ取っていたのだ。
だが、源次の視線は、浜松のある西ではなく、その遥か向こう――甲斐の山々が連なる、北東の空に向けられていた。
彼の軍師としての思考は、もはや徳川との腹の探り合いにはない。
その先に待つ、避けられぬ、巨大な災厄だけを見据えていた。
彼の脳裏には、歴史の年表が、血塗られた文字となってはっきりと浮かんでいる。
(……元亀三年、秋)
その年号が、彼の心臓を冷たく締め付ける。
(もう、いくばくも無い。甲斐の虎、武田信玄が、その生涯最後にして最大の大軍を率いて、西へ動く。西上作戦。その進路上に位置するこの遠江・三河は、巨大な軍勢に蹂躙されるだけの草刈り場と化す)
穏やかな井伊谷の風景が、彼の目には、炎に包まれ、悲鳴が木霊する地獄絵図と重なって見えた。
(この勝利も、徳川との絆も、全てはあの避けられぬ歴史の奔流に抗うための、か細い防波堤でしかない。俺の本当の戦いは、これから始まるのだ)
彼は、自らが背負う運命の重さに、改めて身震いする。
この谷の平穏を、この人の笑顔を、未来を知る自分だけが知っている巨大な脅威から、どうやって守り抜くのか。
その問いが、彼の魂に重くのしかかっていた。
「……どうした、源次。顔色が優れぬぞ」
心配そうに覗き込む直虎の顔に、源次ははっと我に返った。
彼は、自らの内に渦巻く絶望を押し殺し、穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ。ただ、次なる潮の流れが、少し見えた気がしただけでございます」
その言葉に、直虎は静かに頷いた。彼女は、彼の言う「潮」が、もはや浜名湖のそれではないことを、理解していたからだ。
櫓の上に立ち、甲斐の方角を睨む源次の横顔。
その瞳には、未来を知る者だけが持つ、深い絶望と、それを乗り越えようとする鋼の決意が宿っていた。