第30節『傷と問い』
第30節『傷と問い』
砦の門が開いた瞬間、源次の膝から力が抜けそうになった。
夜を徹しての行軍。
背には血を流し続ける重吉。
仲間たちを導き、追手と刃を交わし、死地を抜けた。
砦の木戸をくぐった途端、張りつめていた糸がぷつりと切れる。
その場に崩れ落ちかけた源次を、後ろにいた兵が慌てて支えた。
「源次様! しっかり!」
声は耳の奥で遠く響いた。
足元は泥に沈むように重く、身体の感覚は霞んでいく。
それでも、背に負った重吉の温もりだけは、はっきりと伝わっていた。
「重吉を……薬師に……!」
源次が絞り出すように叫ぶと、数人の兵が駆け寄り、重吉を担いで医務の小屋へと走った。
砦の中は、混乱の坩堝だった。
戦場から戻った兵のうめき声が夜気を切り裂き、女や子供の泣き声がそれに重なる。
城兵は敗走の報を受けて顔を青ざめ、侍たちは互いに責任をなすりつけ合う。
土間には運び込まれた負傷者が並べられ、薬師や尼僧が必死に手当をしていた。
焦げた鉄の匂い、血の生臭さ、薬草の青臭さが入り混じり、空気は息苦しいほどに濃かった。
源次はその光景を、夢の中にいるような気持ちで眺めていた。
自分たちが生き残ったことは奇跡に等しい。
だが、それ以上に――無数の命が、ここに帰ることなく戦場に散った。
砦を覆う呻きと泣き声が、それを否応なく突きつけてくる。
「お前……本当に帰ってきたのか」
声をかけてきたのは中野直之だった。
彼は鎧の裾を血に汚しながらも、鋭い眼光を向けてくる。
「お前の隊だけ、これほど生き残りが多いとはな」
疑念が言葉に滲んでいた。
敗戦の最中、突出して高い生存率――それは奇跡であると同時に、不自然でもあった。
源次は答えられず、ただ黙って深く頭を下げた。
その沈黙が、ますます直之の胸に影を落としたが、今はそれを追及する時ではなかった。
薬師の小屋。
重吉は、すでに寝台に寝かされていた。
肩口の傷は布で覆われ、薬師が針と麻糸を手にしている。
炉の上には焼けた鉄ごてが赤々と光っていた。
「押さえろ!」
薬師の声と同時に、数人の兵が重吉の身体を取り押さえる。
次の瞬間、鉄ごてが傷口に押し当てられた。
「ぐあああああっ!」
重吉の絶叫が小屋を震わせる。
焦げた肉の匂いが立ち上り、源次の鼻腔を突いた。
源次は拳を握りしめ、自分の掌を見下ろす。
「……俺の知識は、この痛みを止められない。この傷を塞げない」
どれほど歴史を知っていようと、どれほど戦場の経緯を語れようと――
いま目の前で苦しむ一人の命を救う術は、彼にはない。
薬師が汗を拭いながら言った。
「峠は越えた。だが……膿めば分からん」
それはつまり、まだ死の淵から遠ざかったわけではないということだった。
源次は重吉の手を握りながら、声にならぬ呻きを喉に押し込んだ。
その後、源次は湯を使わせてもらった。
戦場から戻った者に与えられる僅かな労いだった。
桶に満たされた湯はぬるく、薬草の青臭い香りがした。
鎧を外し、衣を脱ぎ、湯に身を沈めた瞬間――全身の傷がじんと痛んだ。
肩、腕、脇腹、太腿。
無数の小さな切り傷や打撲が浮かび上がる。
戦いの中では気づかなかったものばかりだ。
そのひとつひとつが、鮮烈に記憶を呼び覚ます。
矢の雨。槍の穂先。血に濡れた地面。
重吉の呻き。仲間の絶叫。
「……俺は、何もできなかった……」
湯気の中、声にならない言葉がこぼれ落ちる。
熱いのか、苦しいのか分からない。
ただ、頬を伝う雫が湯に溶けていった。
夜。
源次は砦の城壁に立っていた。
月は雲の切れ間から顔を覗かせ、戦乱の地を蒼白に照らしていた。
風が吹き抜け、遠くからはまだ負傷者の呻きがかすかに届く。
源次は石垣に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
(俺は「歴史を知っている」と慢心していた。
だが、知識は万能じゃない。
むしろ、不完全な知識は迷いを生み、仲間を危険に晒す)
そうだ。
自分は「知っているつもり」で、実際には何も知らなかった。
人の痛みも、戦の現実も、命の重さも。
(知識は……使うべき時と場所を見極めなければ、ただのガラクタだ。
それ以上に必要なのは、仲間を守る覚悟と、目の前の現実に対応する力だ)
そう心に刻んだとき、不意に別の名が脳裏をよぎった。
――新太。
あの男は何者なのか。
なぜ、異端の古文書にしか存在しないはずの人物が、この世界では生きている?
この世界は、本当に自分の知る「歴史」と同じ結末を辿るのか?
背筋に冷たいものが走った。
(俺は……歴史の渦に呑まれている。
新太を知ることこそ、この世界の「真実」に至る道なのかもしれない)
月を仰ぎ、源次は静かに誓った。
「もう二度と、仲間を危険に晒さない」
その声は小さかった。
だが確かに夜空へ放たれ、月光の下に刻まれた。
その横顔は、初陣を越え、己の未熟さと向き合った男のものだった。
まだ若く、弱さも残る。
だが、そこには確かな強さが芽生え始めていた。
こうして源次の初陣は、血と涙と共に幕を閉じた。
だが、それは同時に――彼が「歴史の謎」と真正面から対峙する、新たな始まりでもあった。