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第3節『永禄十一年、遠江』

第3節『永禄十一年、遠江』

 潮風が、頬を撫でた。

 源次は手にした漁網を広げ、日の光を浴びる麻の繊維を確かめながら、指先で結び目を整えていった。

 この作業にも、ようやく慣れてきた。

 指が自然と動くのだ。最初は戸惑いしかなかったが、数週間という時間が経つうちに、身体に染みついた「源次」の記憶が、自分の意識を導いているのがわかる。

 「こっちだ、源次」

 低く渋い声で、老漁師が合図を送る。

 言葉少なな老人だが、海に出れば動きは淀みなく、源次が次にどう動けばよいかを示すように、無言の指が伸びる。

 源次は頷き、濡れた網を手際よく引き寄せる。

 海から上がった魚はすでに村人たちが分け合っており、残された網を繕うのが今日の仕事だった。

 不思議なものだ。

 ――ここでの生活に、もう違和感を覚えなくなりつつある。

 朝は潮の匂いで目を覚まし、握り飯を頬張り、舟に乗り出す。

 陽が昇り、陽が沈む。その繰り返し。

 かつて「俺」であった研究者としての日々は、夢だったのではないかと錯覚しそうになる。

 だが、それでも。心の奥底に沈殿した違和感だけは消えない。

 ここが「歴史のただ中」である可能性。その予感が、日常のひび割れからときおり顔を覗かせる。

 

 そのときだった。

 浜辺の方から、ざわめきが広がった。

 村の子供が駆けていく。女たちが顔をほころばせる。

 「ああ、あの男が来たぞ」

 老漁師の口元にも、わずかに笑みが浮かんだ。

 天秤棒を肩に担ぎ、荷をぶら下げた行商人が、陽炎の向こうから姿を現したのだ。

 数ヶ月に一度しか訪れぬこの男は、村にとって生活必需品の供給源であり、外の世界を知らせてくれる貴重な存在だった。

 村人たちは列をなし、彼の広げた布や塩、鉄くず、時には珍しい薬草を眺めながら、わいわいと声を交わす。

 源次も手を止め、その輪の後ろから様子を窺った。

 「外の情報」――それは、彼にとって何よりも価値のあるものだった。

 

 老漁師は手持ちの干物を差し出し、塩を受け取る。

 行商人は汗を拭きつつ、調子よく言葉を続けていた。

 「いやはや、物騒な世の中になりましたなあ」

 軽口のように発せられたその言葉に、源次の耳が反応した。

 「駿府の今川様も、すっかり力が落ちまして。今や甲斐の武田様と三河の徳川様の顔色を窺うばかり……」

 ――今川。武田。徳川。

 その三つの音が、雷のように脳を撃った。

 心臓がひときわ強く脈打ち、視界が揺らぐ。

 冗談、だろう?

 だが確かに聞いた。ここが戦国のただ中である証言を。

 源次は喉が渇くのを感じながら、震える声を出した。

 「……あ、あの。行商の旦那。い、今は……帝の御代は、いつでござりまするか?」

 村人の一人が笑った。

 「おい源次、何を寝言言ってんだ」

 行商人は怪訝そうに眉を上げ、やがて大声で笑い飛ばした。

 「ははは! 源次や、お前さん酒でもやったのか? 今は永禄十一年じゃねえか!」

 

 ――永禄十一年。

 その数字が耳に届いた瞬間、源次の頭の中で、凄まじい閃光が走った。

 永禄十一年――西暦一五六八年。

 歴史の年表が一気に脳裏に展開される。

 「永禄十一年……それは、今川氏真が没落し、武田信玄が駿河へ侵攻を開始し、徳川家康が三河から頭角を現す……あの年!」

 血が逆流するような感覚に、思わず息を呑む。

 指がかすかに震え、膝の力が抜けそうになる。

 「お、おい旦那……こ、ここは……一体、何という国で?」

 行商人は呆れ顔で答えた。

 「何を今さら。遠江国に決まってるだろうが」

 

 遠江。

 最後のピースが、はまった。

 脳裏のパズルが一気に完成する。

 永禄十一年。遠江。

 それは、まさしく歴史の嵐の只中だった。

 ――徳川と武田と今川が、血で血を洗う戦乱の地。

 戦国史上、もっとも苛烈な領土争奪の舞台。

 「……はは、冗談じゃない」

 思わず漏れた声は、笑いとも呻きともつかぬ響きを帯びていた。

 

 行商人はすでに次の村人と取引を始め、源次の狼狽には気づかない。

 人々はざわめきながら塩や布を受け取り、ささやかな祭りのような喧噪に包まれている。

 だが、源次だけは違った。

 彼の耳には、自分の鼓動しか聞こえていなかった。

 

 行商人が去ったあと、源次は浜辺に一人取り残された。

 空は晴れている。海は、穏やかに波打っている。

 しかし、その全てが血の色に染まって見えた。

 

 「永禄十一年……駿河侵攻……」

 口の中で繰り返すたび、知識の断片が立ち上がる。

 「信玄が、動く……徳川家康が、三河から……今川氏真は……」

 あの論文で何度も読んだ一節が、教科書の行間が、すべて今ここで現実化していく。

 歴史オタクとしての興奮が、全身を突き抜けた。

 「すげえ……! あの武田信玄が、徳川家康が、今、この世界のどこかで生きている! 歴史が、目の前で動いている!」

 拳を握り、震えを堪えきれない。

 これこそ、研究者として夢見た瞬間だった。

 

 だが。

 冷水のような恐怖が、同時に背筋を這い上がる。

 「ちがう……俺は本に書いてあったことを読む側じゃない。今はその中にいるんだ……」

 年表に「遠江各地の村は戦火に巻き込まれた」と一行で書かれていた記述が、突如として鮮明に迫ってくる。

 ――それはつまり、自分が焼かれ、斬られ、蹂躙される可能性を意味しているのだ。

 「冗談じゃねえ……!」

 声が震えた。

 砂を掴む手が汗で滑る。

 「俺は……こんな場所で死ぬために来たのか?」

 押し寄せる興奮と恐怖の奔流。

 目の前の海が、血に染まった幻影を映す。

 源次の顔から血の気が引いていく。

 震えながらも彼は、自らの宿命から目を逸らすことができなかった。

 

 ――物語は、ここから始まるのだ。

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