第299節『二つの報告、一つの影』
第299節『二つの報告、一つの影』
浜松城の奥深く、家康の私室は静まり返っていた。
卓上に置かれた碁盤には、打たれることのない石が静かに置かれ、主の心の乱れを映しているかのようだった。
家康は、井伊谷から戻った酒井忠次が差し出した、分厚い報告書を、ただ黙って読み耽っていた。
そこには、源次の底知れぬ器量、そして徳川家への予想を遥かに超える貢献の申し出が、忠次の冷静な筆致で記されていた。
(……あの男、そこまで読んでいたか)
家康は、低く呻いた。
源次が差し出した「共闘案」は、徳川家にとって喉から手が出るほど欲しいものばかりだった。だが同時に、それは井伊家がもはや徳川の風下に立つつもりがないという、明確な意思表示でもあった。
(……面白い。面白いぞ、源次)
彼の胸には、警戒心よりもむしろ、これほどの相手と渡り合えることへの、武人としての純粋な喜びが湧き上がっていた。
忠次が退出し、部屋に一人になった、その時。
闇の中から、音もなく一つの影が現れた。服部半蔵だった。
「――殿」
その声は、囁きのように低く、部屋の空気を一変させた。
「源次という男。忠次の報告通り、表向きは非の打ちどころなき男。されど」
半蔵は、主君の前に一枚の紙を差し出した。
「その過去を追いました。されど――追えませぬ。男が語る故郷の村は、数年前、武田の兵によって焼き払われ、生存者はおりませぬ。彼の過去は、完全に『無』にございます」
家康の眉が鋭く動いた。「半蔵、そなたの手をもってしてもか」
「はっ。ですが、“今”は追えます。そして、そこに奇妙な矛盾がございました」
半蔵は、源次が岡崎城に逗留していた際の、詳細な行動記録を口頭で報告し始めた。
「源次は、日中は書庫にて熱心に兵法書を読み解いておりました。その知識は、そこらの学者を凌ぐもの。しかし、夜、一人自室に戻ると、彼は誰も見ていないにもかかわらず、まるで漁師が網を繕うかのように、黙々と縄を結び、解くという所作を繰り返しておりました。その手つきは、生涯を海で過ごした者のそれ。まるで、二人の人間が一つの身体に同居しているかのようでございます」
家康は、息を呑んだ。
「兵法を極めた学者」と「屈強な漁師」。あまりにかけ離れた二つの顔。過去が完全に消え去っているという事実と相まって、その男の存在は、得体の知れない不気味な輪郭を帯びてくる。
半蔵は最後の報告を加える。「そして、彼が書庫で最も執心していたのは、『桶狭間』に関する記述。特に、今川義元公が討たれた直後の、各将の動きでございました」。
その言葉が、家康の心の琴線に触れた。
(……桶狭間)
それは、この徳川家康という存在が生まれた、原初の刻。
そして、家康は忠次の報告書へと再び視線を落とした。
そこに記されていた、もう一つの気になる名。
――新太。
――その槍働き、まさに鬼神。単騎で敵陣を切り裂き、その武勇の前には、村櫛党の死兵すら赤子のようであった、と。
「……まるで、若き日の信玄公そのものではないか」
武人としての彼の直感が、警鐘を乱打していた。
これほどの武の化身が、なぜ、あの得体の知れない「二つの顔を持つ男」一人に、あれほどまでに心服しているのか。
家康の胸に、一つの巨大な疑念が渦を巻き始めた。
過去を持たぬ、二つの顔を持つ軍師。
信玄の面影を持つ、謎の猛将。
そして、その二人が仕える、井伊の女地頭。
井伊家は、もはや単なる同盟相手ではない。自らの覇業の隣で、不気味に、そして急速に膨れ上がる、未知の力そのものだった。
源次という「友」への純粋な興味と、その友が従える、あまりにも強大で、そしてあまりにも謎に満ちた力への、為政者としての深い猜疑心。
その二つが、彼の胸中で、複雑な影を落とし始めていた。