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第298節『真の盟友』

第298節『真の盟友』

 評定の間から移された茶室は、しんと静まり返っていた。

 昼間の喧騒は遠く、障子越しの庭からは、時折、鹿威しが石を打つ乾いた音が聞こえるだけ。炭火にかけられた鉄瓶が、ちりちりと微かな音を立て、湯気の立つ様は、まるで二人の男の腹の探り合いを静かに見守っているかのようだった。

 源次は、直虎自らが点てた一碗の茶を、恭しく酒井忠次の前に差し出した。

 それは、この席が井伊家にとってどれほど重要なものであるかを示す、無言の演出だった。


 忠次は、その茶碗をゆっくりと手に取ると、一言も発さずにその深い緑を味わった。

 やがて、碗を置くと、彼は探るような視線を源次に向けた。

「……さて、源次殿。聞かせてもらおうか。貴殿のその、この世の者とは思えぬ知恵の源泉とやらを」

 言葉は穏やかだが、その瞳の奥は、一切の嘘も見逃さぬと鋭く光っている。


 源次は動じなかった。

「私の師は、ただ二つ。――亡き親父が教えてくれた『海の掟』と、旅の僧から譲り受けた『古の書物』にございます」

 彼は、この日のために用意していた答えを、静かに、しかし確信に満ちた声で語り始めた。

「親父は申しておりました。『潮の流れにはことわりがある。それを知れば、百の網にも勝る』と。そして、書物は教えてくれました。その『理』は、海の上だけでなく、人の世にも、戦の駆け引きにも通じるのだと。私がしていることは、ただ、その二つの教えを繋ぎ合わせているにすぎませぬ」

 それは、嘘ではなかった。だが、真実の全てでもない。本来の源次の経験と、転生者としての知識。その二つを完璧に融合させ、「学問好きな漁師」という、誰にも否定できない人物像を提示したのだ。


 忠次は、その答えに息を呑んだ。

 あまりに完璧で、隙がない。彼は、この若者がただ者ではないことを改めて痛感した。だが、その底知れなさに警戒すると同時に、その異質な才能に、為政者として言い知れぬ魅力を感じ始めていた。

 忠次の脳裏に、自らが長年仕え、そしてその最大の秘密を共有する主君、徳川家康の姿が浮かんでいた。彼が抱える、後継者という名の、最も重い課題。


 その忠次の心の揺らぎを見逃さず、源次は静かに逆襲の一手を打った。

「私のことよりも、家康殿のことこそ。先の戦では、譜代の家臣たちですら、殿のご幼少のみぎりのことを誰も語ろうとはなさいませんでしたな。まるで、何かを隠しておられるかのようでした」

 その一言に、忠次の顔から表情が消えた。

 互いが互いの「秘密」に触れようとしていることを悟り、茶室は極度の緊張感に包まれる。


 だが、源次はそれ以上踏み込まなかった。

 彼は、話題をがらりと変え、懐から一枚の地図を取り出した。

「忠次様。過去を探るのは、これまでに致しましょう。我らが見るべきは、未来にございます」

 地図には、井伊水軍が鹵獲した船団の配置と、村櫛党から得た財宝の目録が記されていた。

「此度の勝利で得たこの力、我が井伊家だけのものではございません。我らが望むは、徳川様と共に、来るべき武田との決戦に勝利すること。そのため、この水軍の力を、徳川様のためにどう活かすか、その策を愚考いたしました」


 源次は、井伊水軍を徳川水軍の別働隊として正式に位置づけ、兵站の維持、敵後方の攪乱、そして何より、三河湾から伊勢湾に至る海上交易路の安全確保という、具体的な共闘案を提示した。

 それは、井伊家の利益だけでなく、徳川家の利益を最大化するための、完璧な提案だった。

 忠次は、そのあまりに大きな視点と、私欲のない献策に、完全に心を奪われた。

 この男は、自らの家の利益だけを考える小国の将ではない。徳川家と井伊家が「一つの大きな家」として共に生き残る未来を、本気で描いている。


「……源次殿」

 忠次の声は、もはや探るような響きではなかった。

「……貴殿は、まこと、得体の知れぬお方じゃ。だが、その志の高さ、この酒井忠次、確かに見届け申した」

 彼は、源次の前に深々と頭を下げた。

「我が殿には、ありのままを報告いたそう。『井伊に、底知れぬ器を持つ、真の盟友あり』と」


 その言葉は、徳川家筆頭家老が、源次という男を、個人として完全に認めた瞬間だった。

 警戒は、畏敬へと変わっていた。そして、その畏敬の奥底に、まだ言葉にはならぬ、一つの小さな期待の種が芽生えていた。


(この男……その知恵、その器……そして、その得体の知れなさ。あるいは、我が殿が背負う、あの最も重い荷を、共に担げるやもしれぬ……)


 忠次の脳裏に、主君・家康が誰にも見せぬ、孤独な影が浮かんでいた。

 その影を、目の前のこの若き軍師の光が、いつか照らすことになるのではないか。

 それはまだ、老獪な策士の胸に生まれた、ほんのかすかな予感に過ぎなかった。

 だが、その小さな予感の種が、やがて徳川家の、そして日の本の歴史そのものを揺るがす、誰もが予想し得なかった未来へと繋がっていくことを、この時の二人は、まだ知る由もなかった。

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