第297節『老獪なる訪問者』
第297節『老獪なる訪問者』
本多忠勝が浜松へ帰還してから、数日後のことだった。
井伊谷城は、戦勝の熱狂も落ち着き、鹵獲した船団の再編や、徳川へ献上する物資の準備など、慌ただしいながらも着実な歩みを進めていた。その穏やかな初冬の空気を破るように、一本の報せが城内を駆け巡った。
徳川家より、家老筆頭・酒井忠次その人が、献上の品々を受け取るための正使として、井伊谷を訪れるというのだ。
その報せに、城内は再び緊張に包まれた。
「酒井忠次殿が、自ら……!?」
中野直之は、評定の間でその名を聞き、思わず声を上げた。
本多忠勝が「武」の象徴ならば、酒井忠次は徳川の「知」の象徴。その老練な手腕は、敵味方を問わず知れ渡っている。家康が、その最も信頼する腹心を送り込んできた。その事実が、此度の訪問が単なる儀礼ではないことを、誰の目にも明らかにした。
直虎と源次は、視線を交わした。互いの目に、同じ覚悟の色が宿っている。
(……来たか。本当の交渉は、ここからだ)
数日後。
酒井忠次は、物々しい行列と共に井伊谷城に到着した。
彼は、まず城下の賑わい、そして気賀湊に集結しつつある井伊水軍の威容をその目で確かめ、噂が決して誇張ではないことを肌で感じ取っていた。
評定の間で行われた歓迎の儀は、滞りなく進んだ。
忠次は、家康からの丁重な感謝の言葉と、「井伊水軍を、徳川家の正式な同盟水軍として認め、兵糧や鉄などの物資援助を惜しまない」という、破格の条件を提示した。
広間が、抑えきれない歓喜のどよめきに包まれる。井伊家にとって、これ以上ないほどの厚遇であった。
だが、その儀礼的なやり取りが終わった、まさにその時。
酒井忠次は、それまでの柔和な笑みをすっと消し、その細い目を、ただ一人、源次へと向けた。
広間の空気が、一瞬で凍り付く。
忠次は、集まった全ての家臣に聞こえるよう、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで問いかけた。
「――ところで源次殿。一つ、お伺いしたい」
全ての視線が、源次に集まる。
「貴殿のその潮読みの才、そして人の心を動かす弁舌。我が殿も、平八郎も、心底感服しておった。……儂もじゃ。じゃが、それほどの才を持つお方が、なぜこれまで遠江の片田舎で、一漁師として埋もれておられたのか。儂には、それが不思議でならぬ」
その問いは、本多忠勝のそれとは全く質の違う、冷徹な刃だった。
武勇や心意気ではない。源次という人間の、その経歴の不自然さ、その存在そのものの矛盾を、真っ向から突きつけてきたのだ。
「まるで、天から降って湧いたかのようなご活躍。……あるいは、地の底から這い出てきたか。貴殿のその知恵、一体、どこで学ばれたかな? まるで、この世の者とは思えぬほどじゃが」
その言葉は、広間にいる全員の胸に、同じ疑念の種を植え付けた。
そうだ、この男は一体、何者なのだ、と。
中野直之ですら、固唾をのんで源次の答えを待っていた。
広間の空気が凍りつく中、源次は動じなかった。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、忠次の前に進み出て、深々と一礼した。
「お答えいたします。されど、その答えは、この公の場で語るべき儀ではございません」
彼は、忠次の目を真っ直ぐに見据えた。
「もし、真にお聞き届けくださるおつもりならば、この後、一献差し上げながら、ゆっくりとお話ししとうございます。……我が師についての、長い長い物語を」
その見事な切り返しに、忠次は内心で舌を巻いた。
公の場で問い詰め、追い込もうとした自らの手を、逆に二人きりの対話の場へと誘うことで、いとも容易く無力化したのだ。
「……ほう。面白い」
忠次は、数瞬の沈黙の後、その口元に老獪な笑みを浮かべた。
「よかろう。その物語、とくと聞かせていただこうぞ」
最初の探り合いは、互角に終わった。
だが、本当の戦いは、この後に待つ、二人きりの密室でこそ始まる。
広間には、二人の男が放つ、見えざる火花だけが散っていた。