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第296節『家康への報告』

第296節『家康への報告』

 井伊谷の祝宴が熱狂のうちに幕を閉じた翌朝。

 夜明け前の冷気の中、本多忠勝とその一行は、誰にも見送られることなく、静かに城を発った。彼の武骨な顔には、旅の疲れ以上に、昨夜の出来事がもたらした深い感慨と、そして未だ整理しきれぬ感情の波が刻まれていた。

 友の無念の鎧兜を、彼は自らの馬の鞍に固く結びつけていた。その重みが、彼に敗北と、そしてそれ以上の何かを教え続けていた。


 その日の昼過ぎ、浜松城。

 家康は、碁盤を前に一人、長考に沈んでいた。

 彼が打つ手は、常に二手三手先を読んだ、攻めの一手。だが、今、彼の思考は盤上にはなかった。井伊谷へ送った忠勝が、一体どのような報せを持ち帰るのか。その一点に、彼の全神経は集中していた。


 その時、廊下を渡る重々しい足音が、彼の思索を破った。

 襖が開き、旅装束のままの忠勝が姿を現した。

「……戻ったか、平八郎。して、井伊の様子はどうであった」

 家康の声は、平静を装っていたが、その瞳の奥には隠しきれない好奇心が揺らめいていた。


 忠勝は、主君の前に進み出ると、まず無言で、持ち帰った友の鎧兜を畳の上に置いた。

 その血に汚れ、歪んだ兜を見た瞬間、家康の顔色が変わった。

「……これは、三郎太の……」

「はっ」と忠勝は応えた。「村櫛党の蔵に、眠っておりました」


 彼は、井伊谷での一部始終を、ありのままに語り始めた。

 源次の不遜なまでの挑発。一触即発となった宴の席。そして、その緊張を打ち破るかのように示された、友の遺品と、予想だにしなかった船団の「献上」という申し出。

 家康は、腕を組んだまま、黙ってその報告を聞いていた。

 報告が進むにつれ、彼の表情から面白がるような色は消え、次第に感嘆と、そして武人としての純粋な興奮の色へと変わっていく。


 忠勝が、最後に自らの言葉を締めくくった。

「……殿。源次という男、その知略もさることながら、人の心の機微を読み、それを操る術は、もはや妖術の域にございます。儂は……儂は、あの男に完敗いたしました」

 徳川最強の武将が、初めて口にした完全な敗北宣言。

 その言葉の重みに、家康は息を呑んだ。


 だが、次の瞬間。

 彼の口からほとばしったのは、警戒の言葉ではなかった。

「――はっはっはっは! 面白い! 実に面白い男ではないか、源次は!」

 家康は、腹の底から豪快に笑った。その声は、城の梁を震わせるほどだった。

「我が徳川最強の平八郎を、槍ではなく、言葉と心意気で屈服させるとは! まこと、日の本は広いわ! そのような傑物が、まだ遠江の山里に埋もれておったとはな!」

 彼の瞳には、猜疑心など微塵もなかった。

 あるのは、自らが認めた猛将を打ち負かした、得体の知れない強者に対する、武辺者としての純粋な好奇心と、底抜けの賛辞だけだった。


(……だが、それほどの男が、なぜ我らにこれほどの利を与える? 船と金を献上し、我が盟友としての立場を望む。その真意は、どこにある……?)

 彼は、源次の行動の裏にある「義」を、自らの物差しで測ろうとしていた。

(分からぬ。分からぬが、面白い。ならば、儂もまた、武士として、その心意気に真正面から応えてやるまでよ)


 家康は、決断した。

 この規格外の男と渡り合うには、こちらもまた、徳川家で最も信頼の厚い、器の大きな男を送る必要がある。

「……忠次を呼べ」

 家康は、傍らに控える小姓に、低く、しかし有無を言わせぬ響きで命じた。

「酒井忠次をだ。至急、儂の元へ」


 彼は、碁盤の上に一つ、黒い石を置いた。

 それは、源次が打った驚天動地の一手に対し、徳川家として、そして徳川家康個人として、正面から応じるための、次なる一手であった。

 井伊谷へ、自らの「心」とも言うべき老臣を送り込む。

 そして、あの若き軍師の、その腹の底にある「義」を、確かめるために。

 家康の瞳には、もはや源次を試すような色はなかった。

 そこにあるのは、天下という巨大な盤上で出会った、恐るべき、そして何よりも心惹かれる好敵手に対する、武辺者としての、どこまでも真っ直ぐな闘志の炎だった。

 盤面は、静かに、しかし確実に、次なるステージへと動き始めていた。

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