第295節『三河武士への回答』
第295節『三河武士への回答』
一触即発――。
祝宴の広間は、源次が放った不遜な言葉によって、もはや酒の席ではなく、血の匂いが漂う戦場と化していた。
本多忠勝の背後に控える徳川の若武者たちが、一斉に刀の柄に手をかける。対する井伊の中野直之や新太も、即座に立ち上がり、その前に立ちはだかった。互いの視線が火花を散らし、広間を満たすのは、ただ殺気だけだった。
「――お待ちください」
その凍り付いた空気を断ち切ったのは、源次の静かな、しかし有無を言わせぬ声だった。
彼は、自らが引き起こしたこの混乱の中心に、なおも笑みを浮かべたまま立っていた。
「言葉だけでは、信じられぬのも無理はない。忠勝殿、貴殿は武士。ならば、言葉よりも確かなものをお見せしましょう」
彼は、傍らに控える小野政次に目配せを送った。
小野は、緊張に顔を強張らせながらも、数人の従者を従え、広間の奥から幾つかの武具を運び込んできた。
それらが忠勝の前に置かれた瞬間、彼の、そして全ての徳川武士たちの息を呑む声が、広間に響いた。
そこに置かれていたのは、血に汚れ、錆びつき、そして持ち主の無念を物語るかのように歪んだ、数点の武具。
その一つは、見覚えのある意匠が施された軍旗。
もう一つは、特徴的な装飾が施された、見覚えのある鎧兜だった。
「……これは」
忠勝の声が、震えた。
「……三郎太の兜……。そして、彦十郎の旗……」
それは、数年前、村櫛党との戦で無念の死を遂げた、彼の同胞たちの遺品だった。徳川家が、いくら捜索しても見つけ出すことのできなかった、敗戦の記憶の象徴。
「これらは、貴殿らが流した涙の証」
源次の声が、静かに広間を満たした。
「我らは、それをただ取り返したにすぎませぬ。この井伊水軍の初陣は、我らの武威を示すためではない。盟友である徳川様の、その無念を晴らすための戦でもあったのです」
忠勝は、その言葉を聞いていなかった。
彼は、友の遺品を前に、人目もはばからずその場に膝をつくと、武骨な手で兜をそっと撫でた。その巨体は、抑えきれぬ嗚咽で、小刻みに震えていた。
武士の情。
源次は、理屈ではなく、彼らが最も重んじるその一点を、あまりにも鮮やかに突きつけたのだ。
「そして」と源次は続けた。「この度の戦で得た富の一部と、鹵獲した船のうち十隻を、徳川様に“献上”いたします。我らが望むは対立ではない。共に武田を討つための、真の盟友としての絆にございます」
敵意に対し、圧倒的な実利と、そして何よりも深い恩義で返す。
その予想外の一手に、忠勝は自らの完敗を悟った。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、もはや怒りの炎はない。涙に濡れながらも、目の前の若き軍師に対する、武人としての、純粋な敬意と畏怖の光が宿っていた。
「……源次殿。儂の、負けだ」
その一言で、広間の全ての緊張が解けた。
徳川最強の武将が、頭を下げたのだ。
その光景を見ていた新太は、静かに酒を口に運んだ。
(……これが、こいつの戦か。刃を交えずして、敵の心を折る。俺には、到底真似できねえ)
権兵衛もまた、その底知れない器量に、「……とんでもねえ男を、大船頭に選んじまったもんだ」と、呆れたように、しかし誇らしげに呟いた。
その夜、祝宴は本当の意味で一つになった。
忠勝自らが、新太や権兵衛に杯を注ぎ、互いの武勇を称え合う。身分も、家の違いも、もはやそこにはなかった。
源次が創り出したこの奇跡的な融和を、直虎は上座から、涙をこらえながら見守っていた。
彼女が夢見ていた、新しい井伊家の姿が、確かにそこにあった。