第294節『祝宴の刺客』
第294節『祝宴の刺客』
その夜、井伊谷城の広間は、これまでにないほどの熱気と喜びに包まれていた。
祝宴のために、身分の隔てなく、戦から戻った兵士たちが招かれ、蔵から出されたばかりの新酒と、山海の幸が惜しげもなく振る舞われる。囲炉裏で焼かれる川魚の香ばしい匂いが煙と共に立ち上り、あちこちに置かれた樽からは惜しげもなく酒が注がれる。そして何よりも、人々の尽きない笑い声が広間の梁を震わせていた。
だが、その熱狂の真っ只中に、突如として緊張が走った。
城門に、徳川家からの公式な祝賀の使者が到着したとの報せが入ったのだ。
広間がざわめく中、現れたのは、あの本多忠勝だった。彼は漆黒の鎧こそ纏ってはいなかったが、その巨躯と、鋭い眼光は、ただそこに立つだけで場の空気を支配した。
「殿の代理として、井伊の武勇をこの目で見届けに参った」
彼の声は低く、広間の喧騒をいとも容易く鎮めてしまった。宴は一転して、井伊家の真価が問われる外交の舞台と化す。
上座に通された忠勝は、まず直虎に祝賀の言葉を述べた。だが、その視線はすぐに、直虎の隣に座す男――源次へと向けられた。
もはや、末席ではない。直虎のすぐ隣、侍大将である中野と肩を並べる位置に、彼の席は設けられていた。その事実が、忠勝の眉をわずかにひそめさせた。
やがて、忠勝は自ら大杯を手にすると、源次の前まで進み出た。
「源次殿。貴殿の知略、見事であったと我が殿も称賛しておられた。だが、戦は盤上の遊戯ではない。次に武田の本隊が来れば、その小手先の策が通用するかな?」
その言葉は、井伊水軍の勝利を「まぐれ」と断じ、徳川の武の優位性を誇示する、あからさまな挑発だった。
広間の空気が凍りつき、中野や新太が色めき立つ。
だが、源次は笑みを崩さなかった。彼は差し出された杯を一息に干すと、静かに、しかし刃のように鋭い言葉を返した。
「ご忠告痛み入ります。ですが忠勝殿、“溺れる者は藁をも掴む”と申します。次に武田の大波が来た時、我ら井伊水軍という“藁”がなければ、徳川様の船も沈むやもしれませぬぞ」
そのあまりに不遜な返答に、忠勝の目が怒りに燃え上がった。
彼の背後に控えていた徳川の若武者たちが「無礼者!」と刀に手をかける。井伊の中野や新太も立ち上がり、両陣営は睨み合い、宴は血の匂いが漂う修羅場寸前と化した。
直虎は、その光景を、少し離れた上座から、静かに見守っていた。
彼女が夢見ていたのは、ただの和やかな宴ではない。大国を相手に、一歩も引かぬ気概を持つ、強い井伊家の姿。今、目の前でそれを体現しているのは、他の誰でもない、自らが信じ、全てを賭けた男だった。
彼女の口元に、かすかな、しかし誇らしげな笑みが浮かんでいた。
宴の熱気は、夜が更けるのも忘れ、一触即発の緊張の中で、続いていた。