第292節『領民の熱狂』
第292節『領民の熱狂』
気賀湊から井伊谷へと続く街道は、かつてないほどの熱狂に包まれていた。
道という道は、英雄たちの帰還を一目見ようと詰めかけた領民たちで埋め尽くされ、その人波はまるで黄金色の稲穂のように、どこまでも続いていた。
行列が城下に差し掛かると、その熱気は頂点に達した。
城下に据えられた櫓から祝祭を告げる太鼓が力強く打ち鳴らされ、その心躍る響きに合わせるかのように、谷全体を揺るがすような爆発的な歓声が湧き上がった。
「お帰りなさいませ!」「井伊水軍、万歳!」
その万雷の拍手と歓声は、先頭を進む源次、中野、そして新太へと、容赦なく降り注いだ。
中野は、馬上から誇らしげに胸を張り、民の声に力強く頷いて応えている。その武骨な顔は、領民たちの笑顔を見て、子供のようにも見えた。
源次もまた、馬上から穏やかな笑みを浮かべ、静かに頷きながらその熱狂を受け止めていた。
だが、新太だけは違った。
彼は、自分に向けられるあまりに直接的で、熱のこもった声援に、どう応えてよいか分からずにいた。
「新太様!」「あんたのおかげで、うちの畑も安心して耕せる!」「ようやった!」
以前、祝田の谷から帰還した時にも、声援はあった。だが、それは農兵として指導した一部の者たちからの、ささやかな感謝の声だった。
しかし、今は違う。
老いも若きも、男も女も、彼を知る者も知らぬ者も、誰もが彼の名を呼び、その武勇を讃え、心からの感謝を伝えてくる。
それは、武田にいた頃には決して経験したことのない、温かく、そして少しだけくすぐったい感情だった。
武田では、彼はただ「駒」だった。民は、彼の武勇を恐怖の対象としてしか見ていなかった。だが、ここでは違う。民は、自分たちの暮らしを守ってくれた「英雄」として、自分を見ている。
(……これが)
新太の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
(これが、源次の言っていた『守るべきもの』か)
鍬を振るい、共に汗を流した農兵たちの顔。井戸端で水を分けてくれた老婆の笑顔。そして今、目の前で涙を流して喜んでくれる、名も知らぬ民の顔。
それら全てが、彼の中で一つの確かな形を結んだ。
彼は、照れくさそうに、しかし確かに民衆に向かって頷き返した。その口元には、かすかな、しかし本物の笑みが浮かんでいた。
自分がこの手で守ったものの価値と、その温もりを、彼は初めて、頭ではなく心で理解したのだった。
その新太の横顔を、源次は安堵の表情で見つめていた。
出陣前夜の、あの言葉が脳裏に蘇る。
――『この戦、もし勝って、俺が生きて戻れたら』
(……本当に、生きて帰ってきてくれた)
源次は、内心で静かに息を吐いた。
友が立てた不吉な予言を、無事に乗り越えられたことへの、軍師としてではなく、ただ一人の人間としての、純粋な安堵だった。
(よかった……。本当によかった、新太。お前が言っていた『本当の意味で井伊の将になる』という覚悟、今まさに、その第一歩を踏み出したんだな)
彼は、友の成長を、自らのことのように誇らしく感じていた。
熱狂は、なおもやまない。
凱旋の行列は、その万雷の拍手の中を、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、井伊谷城の大手門へと進んでいく。
その門の前には、この谷の全てを背負う、ただ一人の主君が、彼らの帰りを待ちわびていた。