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第29節『撤退戦』

第29節『撤退戦』

 森の闇は深く、敗走する兵たちの息遣いすら音を立てて響くかのようだった。

 血に濡れた重吉を抱え、源次は膝をつきながら必死に応急処置を施していた。

 槍で抉られた肩口からは、なおもじわりと血が滲み出ている。

 布で固く縛り、圧迫しても、出血は完全には止まらない。


 「……これじゃ、歩けない」

 源次が低く呟いた瞬間、周囲に重苦しい沈黙が落ちた。

 数人の兵が顔を見合わせる。

 その目に浮かんでいたのは、誰もが口にするのをためらう言葉。

 ――置いていくしかない。

 敗軍の退き口で、重傷者を抱えることは即ち全滅を意味する。

 常識であり、非情な戦場の掟でもあった。


 「源次殿……」

 若い兵の一人が、おずおずと声をかけた。これまでの戦いで、彼の呼び方は自然と敬意を帯びたものに変わっていた。

 「俺たちも……もう限界で……」

 言い淀むその声を、源次は遮った。

 自分の知識体系が崩壊したことへの恐怖は、重吉の熱い血が頬にかかった瞬間、罪悪感という名の灼熱の鉄に変わっていた。

 無言のまま立ち上がり、血に濡れた重吉の身体を背へと背負う。

 「……な、何を……!」

 兵たちが息を呑む。彼らの目が見たのは、ただの足軽仲間ではない。絶望的な状況下で、仲間を見捨てぬという決断を下した指導者の姿だった。

 源次の眼差しには、もう迷いはなかった。

 重吉の血の温もりを背に受け止めながら、彼は短く吐き出すように言った。

 「行くぞ。……誰も置いていかない」

 その言葉は、重吉に向けられたものではなかった。

 兵たち全員に対する、源次の誓いそのものだった。


 「馬鹿野郎……下ろせ……!」

 重吉が背で呻く。

 「俺なんぞのために、お前まで死ぬ気か……!」

 源次は歩みを止めず、歯を食いしばった。

 「黙っててください。あんたにはまだ……俺に教えることが山ほどあるんだ」

 力強い声に、重吉は息を詰まらせた。

 弱り切った瞳に、かすかに笑みが浮かぶ。

 「……生意気な……」

 源次の背中は重く、痛みと疲労で砕けそうだった。

 だがその重みこそが、彼の心を支えていた。

 (もう……誰も死なせない。俺のせいで死なせるものか……!)


 一行は再び、暗い森を進み始めた。

 源次は最後尾に立ち、殿しんがりを務める。

 背には重吉。前方には疲弊しきった仲間たち。

 羅針盤を失った今、頼れるのは己の五感だけだった。

 耳を澄ませば、風の合間に混じる衣擦れの音。

 鼻を突くのは湿った土の匂いの中に漂う鉄錆――血の匂い。

 草の揺れ方ひとつで、獣か人かを見分けようと神経を張り詰める。


 「……止まれ」

 源次が低く命じると、兵たちは即座に茂みに身を伏せた。

 数息ののち、武田兵の一団が通り過ぎる。

 赤備えの鎧の鈍い光が、月明かりに浮かんでは消える。

 源次は息を潜め、背の重吉もかすかな意識の中で囁いた。

 「……右だ……三間先に……二人……」

 その声を頼りに、源次は敵の足取りを追う。

 血の匂いを嗅ぎ取られる前に、全員を無傷でやり過ごす。


 だが、やり過ごせぬ敵もいた。

 狭い岩場の道で、追手と鉢合わせになる。

 兵たちが悲鳴を上げかけるが、源次は即座に指示を飛ばす。

 「二人は右の岩陰! 三人は左に構えろ! 残りは伏せて動くな!」

 かつての彼なら、不完全な知識に頼り混乱しただろう。

 だが今は違う。思考は澄み渡り、目の前の現実だけを見据えている。

 「右から突け!」「次は左だ、足元を狙え!」

 背に重吉を負う彼は、直接刃を振るうことはできない。だが、その声は誰よりも正確に敵の急所を捉え、仲間の槍を導いていた。

 彼の指示通りに動いた兵たちの槍が、声を上げさせぬまま敵の喉と足を貫く。

 短い乱戦ののち、敵兵は血に沈んだ。


 「……っ」

 源次は息を吐いた。

 重吉が背で低く笑った。

 「いい面構えになったな……」

 源次は答えず、ただ再び歩を進める。

 夜は深まり、森は一層暗くなっていく。

 疲労困憊の兵たちは足を引きずり、何度も転びそうになる。

 だが、彼らの視線は一点に集まっていた。重い仲間を背負い、一歩一歩着実に闇を踏みしめる源次の背中に。あの背中についていけば生きられる。その無言の確信だけが、彼らの足を前に動かしていた。

 一人の兵が、隣の仲間に囁く。

 「まだだ……まだ歩ける……!」

 囁き返した声には、揺るぎない響きがあった。

 「ああ……源次様が、重吉殿を背負って戦っているんだ。俺たちがへばるわけにはいかねえ」

 もはや誰も、彼をただの足軽仲間とは見ていなかった。


 やがて、森の木々の向こうに薄い光が差し込み始める。

 夜明けだった。

 兵の一人が掠れた声で叫ぶ。

 「見えた……! 砦だ……井伊谷の砦が……!」

 朝靄の中、石垣と木柵が霞んで浮かび上がっていた。

 その姿を認めた瞬間、兵たちは次々と膝から崩れ落ちた。

 嗚咽を漏らす者、土を掴んで涙を流す者。

 源次は、まだ歩を止めなかった。

 背の重吉の重みを確かめながら、砦の門へと足を運ぶ。

 重吉は意識の底で微かに呟いた。

 「……よう……やったな……」

 源次は答えなかった。

 ただ、朝日が差し込む方へと歩み続けた。

 光は背に当たり、汗と血に濡れた甲冑を照らす。

 その姿はもはや、ただの歴史を知る男ではなかった。

 仲間を背負い、血と泥にまみれて死線を越えた、紛れもない「戦士」だった。

 昇り始めた朝日が、彼の背を大きく照らし出す。

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