第289節『戦果と新たな仲間』
第289節『戦果と新たな仲間』
夜明けと共に訪れた勝利から、数日が過ぎた。
村櫛の港には、もはや血と炎の匂いはなく、代わりに、戦後処理の喧騒と、新しい時代の始まりを告げる活気が満ち始めていた。
源次の指揮の下、井伊水軍の兵たちは、降伏した村櫛党の者たちを使役し、港の再建と、鹵獲した物資の整理にあたっていた。
まず行われたのは、戦果の検分だった。
村櫛党の蔵からは、彼らが長年蓄え込んできた莫大な財宝――山と積まれた米俵、潮の香りがする塩の山、そして南蛮渡りの陶磁器や硝子器、さらには数えきれないほどの金銀が、次々と運び出された。
「軍師様! ご覧くだせえ! これだけの富があれば、井伊谷は十年は戦わずとも食っていけますぜ!」
財宝の目録を作成していた小野政次配下の文官が、興奮した声で報告する。だが、源次は静かに頷くだけだった。
彼の真の目的は、この目に見える富ではなかった。
源次は、権兵衛と共に、港に浮かぶ鹵獲船を一つひとつ検分して回っていた。
「……見事なもんだ」
権兵衛は、村櫛党の旗艦であった巨大な安宅船の竜骨を撫でながら、感嘆の声を漏らした。「櫓は吹き飛んじまったが、船体そのものはほとんど無傷だ。こいつは、そこらの職人じゃ造れねえ。間違いなく、堺あたりの一流の船大工の仕事だ」
他の船も同様だった。舵や櫂は破壊されているが、船体は頑丈で、手練れの船大工の手にかかれば、数ヶ月で元の姿を取り戻せるだろう。井伊水軍は、この一戦で、自軍の倍以上の船を手に入れたのだ。
だが、源次が最も価値があると考えていたのは、船でも財宝でもなかった。
彼は、浜辺に集められた数百の降伏兵たちの前に立った。彼らは、敗残兵として意気消沈していたが、その目にはまだ、海の男としての気骨が残っていた。
源次は、彼らの中から、船の操舵に長けた者、船体の修理技術を持つ者、そして遠洋航海の経験がある者を、権兵衛の目利きを借りて一人ひとり選別していった。
「お前たちに問う」
源次の声が、静かな浜辺に響いた。
「このまま罪人として裁きを受けるか。それとも、俺の下で、再び海の男として生きるか。どちらかを選べ」
その問いに、海賊たちは顔を見合わせた。
「俺が創るのは、ただ奪うだけの海賊働きではない。富を生み、人を運び、この海に新しい道を作る、日の本一の水軍だ。お前たちの腕と経験が、そのためには必要だ。俺と共に、新しい海へ漕ぎ出す覚悟のある者は、一歩前へ出ろ」
しばしの沈黙。
やがて、一人の男が、おずおずと立ち上がった。彼は、村櫛党の中でも指折りの操舵手として知られた男だった。
「……俺たちは、頭領の強さだけを信じてきた。だが、あんたは違う。あんたは、俺たちに新しい『道』を見せてくれると言う。……信じても、いいのか」
「信じるかどうかは、お前たちが決めることだ」と源次は静かに答えた。「だが、俺は約束する。俺の下で働く者には、相応の働き場所と、誇りを与える、と」
その言葉をきっかけに、一人、また一人と、男たちが立ち上がっていく。
彼らは、源次の圧倒的な知略と、敵兵にすら手当を命じたその器の大きさに、すでに心服していたのだ。この男の下ならば、自分たちは再び輝けるかもしれない。その希望が、彼らを突き動かした。
その日の夕刻。
鹵獲した船の中から、村櫛党に襲われ、全てを失った商人たちの荷が見つかった。源次は、それらを元の持ち主である商人たちに、利息と見舞い金を付けて返還した。
「源次様! 権兵衛様! このご恩は、一生忘れませぬ!」
商人たちは、涙を流しながら、何度も、何度も頭を下げていた。
その光景を、新たに井伊水軍に加わった元海賊たちも、複雑な表情で見つめていた。自分たちが奪ったものが、今、持ち主の元へと返されていく。その光景は、彼らがこれから歩む道が、これまでとは全く違うものであることを、何よりも雄弁に物語っていた。
源次は、静かにその光景を見守っていた。
(……これで、全ての準備は整った)
彼は、この戦で得たもの――富、船、そして何よりも「人」という最大の戦果を胸に、井伊谷への帰還を命じた。
彼の頭の中では、すでに次なる一手――この新生・井伊水軍を率いて、どうやって来るべき国難に立ち向かうか、その壮大な海図が描かれ始めていた。