第287節『降伏』
第287節『降伏』
竜神丸の櫓の上は、二人の武人が放つ殺気によって、戦場の喧騒から切り離された異質な空間と化していた。
新太の槍が唸りを上げ、頭領の大太刀が風を切り裂く。火花が散り、甲高い金属音が夜明け前の空気に響き渡った。
新太の槍筋は、力と技が完璧に融合したもの。だが、頭領もまた、長年この海を支配してきた百戦錬磨の雄。揺れる足場をものともせず、老練な剣技でその猛攻を巧みにいなしていく。
一進一退。互いに決定打を与えられぬまま、両者の呼吸は次第に荒くなっていく。
その死闘を、源次は二人の背後で静かに見つめていた。
だが、彼の意識は、目の前の剣戟にはない。
彼の全身の神経は、ただ足元の甲板、船体を通して伝わってくる、湖の巨大な呼吸に集中していた。
(……来る)
船体がきしむ微かな音。満ち潮の力が、今まさに頂点に達しようとしている。
源次は、この一瞬を待っていた。
彼は、懐から小刀を取り出すと、自らのすぐ足元、櫓の床板を支える一本の太い縄を、ためらうことなく切り裂いた。
ブツン、と鈍い音が響く。
その瞬間、世界が傾いだ。
この日一番の巨大なうねりが竜神丸の船体を横から突き上げ、櫓の支えを一本失った床板が、シーソーのように大きく傾いだのだ。
「なっ……!?」
死闘を繰り広げていた新太と頭領の体勢が、根こそぎ崩される。
だが、この揺れを予測し、備えていた者が一人だけいた。源次だ。
彼は、傾く甲板の上を滑るようにして、体勢を崩した頭領の懐へと一直線に滑り込んだ。その動きは、武士ではなく、荒波の中で船から船へと飛び移る漁師の、しなやかな身のこなしだった。
「――もらった」
源次の口元に、血に濡れた笑みが浮かんだ。
彼は、滑り込む勢いのまま、腰に差していた中野直之の脇差を抜き放っていた。狙うは鎧の隙間、軸足の太腿。
ザシュッ、という肉を断つ鈍い音。
「ぐおおおおっ! 若造ぉっ!」
頭領は激痛に顔を歪ませながらも、なお武人としての意地で大太刀を振り上げ、源次にとどめを刺そうとした。
だが、その刃が振り下ろされるよりも早く、別の方向から地鳴りのような声が響いた。
「――もらったぁ!」
権兵衛だった。彼は、別船からこの好機を窺っていたのだ。彼の手から放たれた巨大な銛が、風を切り裂き、無防備な頭領の背中へと、深々と突き刺さった。
ぐぷっ、という鈍い感触。
時間が、止まった。
頭領の目が見開かれた。
「……馬鹿な。潮の、揺れだけでなく……漁師、風情に……この俺が……?」
それが、浜名湖の海を恐怖で支配した、海の鬼の、最期の言葉だった。
彼の巨体から力が抜け、握りしめていた大太刀が、カラン、と乾いた音を立てて甲板に落ちた。そして、その巨体もまた、糸の切れた人形のように、ゆっくりと崩れ落ちていく。
その光景は、誰の目にも、この戦の決着をあまりにも雄弁に物語っていた。
「……頭領が」
浜辺で、最後の抵抗を続けていた海賊の一人が、かすれた声で呟いた。
自分たちを抑えつけていた頭領が、討ち取られた。
その信じがたい事実が、彼らの脳天を巨大な槌で打ち据えたかのような、強烈な衝撃となって襲いかかった。
「……嘘だろ」「頭領様が……やられた……?」
彼らの手に握られていた刀が、カラン、と力なく砂浜に落ちた。
一人、また一人と、武器を手放していく。
心の支柱を失った彼らは、もはや戦う理由そのものを見失ってしまったのだ。
「もう……終わりだ……」
誰かがそう呟くと、それはまるで伝染病のように、残存する全ての海賊たちの間に広がっていった。
彼らは、次々とその場に膝をつき、泥と血に汚れた額を、砂浜に擦り付け始めた。
それは、完全な降伏の意思表示だった。
戦意は、完全に喪失した。
その様子を見ていた井伊の兵たちもまた、振り上げていた槍や刀を、ゆっくりと下ろしていった。
戦場で刃を交える音は、完全に止んだ。
代わりに聞こえてくるのは、負傷者のうめき声と、安堵のため息、そして、夜明けの海を渡る、静かな風の音だけ。
井伊水軍の、血と炎に彩られた初陣は、こうして静かに、その幕を閉じようとしていた。