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第286節『友の盾』

第286節『友の盾』

 戦場の喧騒が、その質を変え始めていた。

 源次の完璧な采配と、新太率いる陸戦部隊の圧倒的な蹂躙の前に、村櫛党の海賊たちの組織的抵抗は完全に崩壊した。残っているのは、ただ武器を捨てて命乞いをする者か、恐怖に駆られて逃げ惑う者だけ。勝敗は、決した。誰もがそう確信した、その時だった。


「――まだだ! まだ終わらせはせんぞ!」


 地を這うような、獣の咆哮が、乱戦の只中から響き渡った。

 声の主は、村櫛党の頭領だった。

 彼は、自らの敗北を悟っていた。だが、百戦錬磨の海の雄としての誇りが、彼にただの敗走を許さなかった。このまま犬死にするくらいなら、一矢報いる。この地獄絵図を描き出した、敵の首魁の喉笛を食い破ってこそ、我が人生の幕引きにふさわしい。

 彼の血走った目が、戦場全体を見渡し、やて一点に固定された。

 旗艦「竜神丸」。その最も高い櫓の上で、ただ一人、優雅に軍配を振るう、憎き若造の姿。


「……あの男か」

 頭領は、低く呻いた。「あの若造の首一つで、この戦、まだひっくり返せるわ!」

 彼は、最後まで自分に付き従う、最も手練れの部下数人に向かって、最後の檄を飛ばした。「野郎ども! 最後の祭りだ! 狙うは大将首ただ一つ! 我に続けぇ!」

 その狂気に満ちた叫びに呼応し、親衛隊の男たちが鬨の声を上げる。彼らは、燃え残っていた一隻の小舟へと飛び乗った。


「権兵衛! 止めろ!」

 浜辺でその動きに気づいた中野直之が叫ぶ。だが、もはや遅い。

 頭領が自ら操る小舟は、船の残骸の間を、まるで蛇のようにすり抜け、信じがたいほどの速度で竜神丸へと迫っていた。

 偵察部隊の旗船からその光景を見ていた権兵衛もまた、血相を変えて叫んだ。

「源次! 危ない!」だが、彼の船からは距離がありすぎる。


 小舟は竜神丸の船体に激突し、数本の鉤縄が投げ込まれ、船べりに深々と食い込む。

 次の瞬間、頭領をはじめとする血に飢えた獣たちが、その縄を伝って、一気に甲板へと躍り込んできた。

「大将首は、もらったぁぁぁっ!」

 頭領の咆哮が、竜神丸の甲板を震わせた。彼は、返り血で濡れた大太刀を抜き放つと、櫓へと続く階段を、凄まじい勢いで駆け上がってくる。護衛の兵たちは、次々と斬り伏せられた。


 櫓の最上段で、源次はその光景を、信じられないという目で見下ろしていた。

(……まずい! 俺は、敵の頭領の、武人としての最後の『意地』を読み違えていた……!)

 軍師としての、痛恨のミス。その一瞬の油断が、自らの命を絶体絶命の危機へと追い込んでいた。


「見つけたぞ、若造」

 階段を駆け上がってきた頭領が、櫓の上に立った。彼の巨体が、夜明け前の薄明かりを遮り、巨大な影となって源次にのしかかる。

「てめえが、この地獄を描いたのか。大した腕前じゃねえか。だが、結末は、この俺が書き換えてやる」

 頭領は、嘲笑うかのように言った。


 源次は、腰に差した刀の柄を握りしめた。しかし勝てるとは思えない。

(……ここまで、なのか)

 源次の脳裏に、直虎の顔が浮かんだ。

(直虎様……申し訳、ありませぬ……)

 絶望が、彼の心を完全に支配しようとした、その時。


 ――キィィィン!


 鼓膜を突き破るような、甲高い金属音が響き渡った。

 恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。

 振り下ろされた頭領の太刀を、横合いから突き出された一本の槍が、寸でのところで受け止めている。その槍の主は――新太だった。

 彼は、源次からの伝令を受け、浜辺の乱戦を弥助に任せて頭領を追ったまま、単騎で、この旗艦へと飛び移ってきていたのだ。


「……新太!」

 源次の口から、かすれた声が漏れた。

 新太は、源次を振り返らなかった。その背中は、まるで岩壁のように大きく、源次を庇うように立ちはだかっている。

「……貴様の相手は、この俺だ」

 地を這うような低い声が、頭領に向けられる。

「邪魔だ、源次! 下がってろ!」

 新太の叱咤が飛ぶ。彼は槍で押し返し、敵将との間にわずかな間合いを作ると、源次に背を向けたまま、再び槍を構え直した。それは、自らの背中を完全に友に預ける、絶対的な信頼の証だった。


 その光景を見ていた権兵衛は、自らの旗船の上で、感嘆の声を漏らした。

(……やりやがった。新太を間に合わせやがった。源次の奴、ここまで読んでやがったのか)

 彼は、この戦の本当の恐ろしさを、改めて肌で感じていた。

「野郎ども、見たか! あれが俺たちの軍師様と船手頭様だ! 援護するぞ! 雑魚どもを、一匹たりとも櫓に近づけるな!」

 権兵衛の号令一下、彼の部隊が放った矢の雨が、頭領に続こうとしていた親衛隊の足止めをする。


 櫓の上では、新太と頭領の、壮絶な一騎打ちが始まろうとしていた。槍と刀が火花を散らし、馬が嘶き、土煙が舞い上がる。

 そして、その背後で。源次は、刀を鞘に納めると、自らの本当の戦場へと意識を戻した。彼の足元の甲板が、わずかに、しかし確実に、傾いでいる。

 彼の耳が、次に訪れるであろう、さらに大きな船の揺れの予兆――船体がきしむ、微かな音を捉えていた。

(……潮……)

 絶望の闇の底で、ただ一つの、細い、しかし確かな光が差し込んだ。彼は、新太の背後で、静かにその「時」を待ち始めた。

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