第284節『挟撃完成』
第284節『挟撃完成』
夜明け前の薄明かりが、地獄と化した港を青白く照らし出し始めていた。
燃え盛る船から立ち上る黒煙が、東の空を覆い隠し、まるで終わらない夜が続くかのような錯覚を覚えさせる。湖面には船の残骸と油が浮かび、消え残った炎が不気味な光を放っていた。
その絶望的な光景を前に、砦の裏手から駆け戻ってきた村櫛党の海賊たちは、ただ立ち尽くすしかなかった。
「……嘘だろ」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「俺たちの船が……全部……」
自分たちの城、自分たちの誇り、そして唯一の逃げ場であった船団が、目の前で無力な鉄屑と化していく。その衝撃は、彼らから戦う意志さえも奪い去ろうとしていた。
だが、彼らの頭領はまだ死んではいなかった。
(……嵌められた)
彼の脳裏で、ようやく全てのピースが繋がった。
砦内部の火事。港への手薄な警戒。そして、この完璧すぎるタイミングでの強襲。これは、偶然などではない。自分たちの動き、心理、その全てを読み切った上で仕掛けられた、巨大な罠だ。
(……あの火事は、我らを港から引き離すための陽動だったのか!)
その事実に気づいた時、彼の全身を、絶望ではなく、獣のような猛烈な怒りが駆け巡った。
「小僧ぉ……!」
彼は、この地獄絵図を描き出したであろう、顔も見えぬ敵に対する、殺意を剥き出しにした。
「うろたえるな! 船がなくとも、我らにはまだ腕がある! 敵は上陸したばかり! 囲んで叩き潰せ!」
頭領の咆哮が、呆然としていた部下たちの耳を打った。その声には、まだ戦を諦めないという、頭領としての最後の意地が込められていた。
その言葉に、海賊たちははっと我に返り、再び武器を握り直す。そうだ、まだ終わってはいない。この港は我らの庭だ。上陸してきた敵など、一人残らず海に叩き落としてくれる。
死兵と化した彼らの目に、再び狂気の光が宿った。
だが、彼らが反撃を開始しようとした、その背後から。
新たな鬨の声が響き渡った。
「――そこまでだ、海賊ども」
振り返った彼らの目に映ったのは、燃え盛る食料庫の炎を背にして、槍を構えたまま静かに退路を塞ぐ、新太率いる陸戦部隊の姿だった。
その鎧は煤で汚れ、刃には血が滴っていたが、その瞳は、獲物を追い詰めた狼のように、冷たく、そして鋭く光っていた。
退路は、断たれた。
前門には、上陸し陣形を整えつつある井伊水軍本隊。
そして、後門には、鬼神のごとき猛将が率いる、精鋭部隊。
彼らは、自らが築き上げた難攻不落の砦の麓で、完全に、袋の鼠となっていた。
源次が描いた「竜神の顎」が、今、その牙を、完全に閉じようとしていた。
旗艦「竜神丸」の櫓の最上段。
源次は、その完璧な包囲網が完成したのを、静かに見ていた。
彼の顔には、もはや軍師としての興奮はない。ただ、自らが描いた脚本が、一分の狂いもなく演じられたことへの、冷たい満足感だけがあった。
逃げ場を失った海賊たちが、頭領に従って最後の抵抗を試みるべきか、あるいは武器を捨てて降伏すべきか、その選択すらできずに狼狽している。
新太の部隊も、権兵衛の部隊も、源次の命令を待って、最後の一撃を加えずにいた。
この戦場の全ての命運は、今や、この櫓の上に立つ、ただ一人の男の手に委ねられていた。
源次は、傍らに控える旗持ち兵に、静かに、しかしはっきりと命じた。
「――命令を送れ」
その言葉の意味を、兵士は一瞬、理解できなかった。
「……軍師様? 何と、お伝えすれば……」
源次は、眼下で震える海賊たちを一瞥すると、冷たく言い放った。
その声は、夜明け前の冷気よりもなお、冷たかった。
「――『獲物は、籠の中だ』、と」
その非情で、しかし絶対的な勝利を告げる言葉が、井伊水軍の最初の戦いの終わりを、そして村櫛党という一つの歴史の終わりを、静かに、しかし決定的に宣告した。
東の空が、わずかに白み始めていた。
だが、その光は、救済の光ではなかった。
これから始まる、一方的な殲滅戦の始まりを告げる、残酷な光だった。