第282節『水軍突撃』
第282節『水軍突撃』
天に振り上げられた源次の軍配が、静止した。
一瞬。
嵐の夜の、全ての音が止まったかのような錯覚。風の唸りも、波の轟きも、遠い砦から聞こえる喧騒さえも、彼の研ぎ澄まされた意識の外へと消え去った。
彼の目には、ただ一点、がら空きとなった敵の港だけが映っていた。
(――行け)
心の内で呟くと同時に、軍配が振り下ろされた。
それは、夜の闇を切り裂く、一閃の光だった。
その合図を、旗艦「竜神丸」の甲板で待ち構えていた太鼓の打ち手が、見逃すはずはなかった。
バチが、巨大な陣太鼓の革を、渾身の力で打ち据える。
――ドンッ!!!
腹の底まで震わせるような、重く、鋭い一撃。
その音は、眠っていた湖の竜が、ついにその覚醒の咆哮を上げたかのようだった。
「――今だ! 全軍、突撃ぃぃぃぃっ!」
源次の絶叫が、太鼓の音と重なり、闇夜に轟いた。
その号令一下、それまで闇に息を潜めていた井伊水軍の船団が、一斉にその牙を剥いた。
「櫂、入れろぉ!」
権兵衛の、地鳴りのような怒声が、先頭を行く偵察部隊の旗船から飛ぶ。
それに呼応し、十五隻からなる船団の全ての船で、百を超える櫂が一斉に黒い水を捉えた。
ザッ、という音と共に、船体がぐっと前に押し出される。
それは、ただの人力ではなかった。
大潮の満ち潮。その最も流れが速くなる、奔流のごとき自然の力が、彼らの船団を背後から力強く後押ししていた。
船は、もはや人の力で漕いでいるのではない。
海そのものが、彼らを弾丸のように撃ち出していた。
権兵衛が操る舵は、神がかり的な技で、荒波を乗りこなし、暗礁を紙一重でかわしながら、後続の船団のための安全な航路を切り拓いていく。
そのすぐ後ろを、戦闘部隊の船が、そして源次が櫓の上から全軍を見下ろす旗艦「竜神丸」が、まるで巨大な槍の穂先のように突き進む。
その異変に、港の櫓の上にいた見張りが、ようやく気づいた。
彼が瓢箪の酒を煽ろうと、顔を上げた、その瞬間だった。
目の前の闇が、盛り上がった。
黒い、巨大な影の塊が、信じられないほどの速度で、自分たちに向かって迫ってくる。
何が起きているのか、彼の酔った頭では、すぐには理解できなかった。
「……なんだ、ありゃ……波か?」
呟いた声は、風にかき消された。
だが、それは波ではなかった。
無数の船。
井伊家のものか、徳川家のものかも分からない。ただ、圧倒的な数の船団が、鬨の声も上げず、旗も掲げず、ただ無言のまま、死神の軍勢のように、港へと突撃してきていた。
「て……」
彼の喉が、引き攣った。
「て、敵襲! 敵襲だぁぁぁぁぁっ!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫が、ようやく夜空に響き渡った。
櫓の上の半鐘が、狂ったように打ち鳴らされる。
カン! カン! カン! カン!
その甲高い警告音は、砦の裏手で火消しに追われていた海賊たちの耳にも、かすかに届いた。
「……何の音だ?」「敵襲……だと? 馬鹿な、どこから!」
彼らが、信じられないという顔で港の方角を振り返った時、すでにもう、全ては手遅れだった。
井伊水軍の船団は、もはや誰にも止められない。
源次が考案した「波切構造」の鋭い船首が、港の入り口に張られていた貧弱な防禦柵を、まるで紙を破るように突き破る。
そして、村櫛党の誇りである、三十隻の船団が停泊する港の、そのど真ん中へと、猛烈な勢いで突っ込んでいった。
それは、もはや戦ではなかった。
一方的な、蹂躙の始まりだった。
櫓の上で、源次は軍配を固く握りしめていた。
全身に叩きつける風雨。眼下で繰り広げられる、自らが描いた脚本通りの光景。
その全てが、彼の五感を刺激し、脳を焼き付くような興奮で満たしていた。
(見たか、直虎様……! これが、俺たちの、井伊水軍の力だ!)
彼の視線の先、狼狽する見張り兵が、震える手で弓をつがえようとしているのが見えた。
だが、その矢が放たれるよりも早く、源次の隣に控えていた井伊の兵が放った矢が、見張り兵の喉を正確に射抜いていた。
悲鳴を上げる間もなく、男の身体が櫓から湖へと落ちていく。
水面に上がったかすかな水飛沫は、この戦で流れる最初の血となった。
戦端は、開かれた。
いや、源次によって、こじ開けられたのだ。