第281節『がら空きの港』
第281節『がら空きの港』
砦の裏手で地獄の釜の蓋が開かれた頃、その正面に広がる港は、まだ嵐の夜の偽りの静寂に包まれていた。
だが、その静寂は長くは続かない。
カン! カン! カン! カン!
砦の内部から響き渡るけたたましい半鐘の音と、遠く赤々と夜空を染める炎の光が、この港にも異変が起きていることを告げていた。
港に残されたわずか数人の見張り兵は、櫓の上からその光景を、信じられないという顔で眺めていた。
「おい、見ろ! 砦の奥が燃えているぞ!」
「なんだ、ただの火事か」「すぐに消えるだろう」
彼らは、まさかこの嵐の夜に、外から敵が攻めてくるなどとは夢にも思っていない。彼らの背後――黒くうねる湖の闇には、一瞥だにくれなかった。
風の音、波の音、そして遠くから聞こえる仲間たちの怒号。それらが、すぐそこまで迫っている死の足音を、完璧にかき消していた。
その死の足音の主――源次は、旗艦「竜神丸」の櫓の最上段に立っていた。
全身に叩きつける風雨をものともせず、彼は闇に包まれた港の一点だけを、猛禽のような鋭い目で見据えていた。
彼の立つ櫓は、まるで生き物のように激しく揺れている。だが、彼の足は甲板に根を張ったかのように微動だにせず、その身体は、船の揺れと完全に一体化していた。
(……掛かったな)
源次の口元に、冷徹な笑みが浮かんだ。
砦の内部で燃え盛る炎は、ここからでもはっきりと見える。それは、友である新太が、命がけで灯してくれた、勝利への道標だった。
(新太、見事な陽動だ。お前の放った火は、食料庫だけでなく、奴らの頭脳までをも焼き払ってくれた)
彼は、櫓の上から眼下を見下ろした。
そこには、闇に溶け込むようにして息を潜める、井伊水軍の船団が広がっていた。
先頭を行く偵察部隊の旗船では、権兵衛が神がかり的な技で舵を握り、船団を港の入り口、敵の矢の届かぬギリギリの間合いで完璧に静止させていた。
船上の兵たちは、すでに戦闘準備を完了させている。弓には火矢がつがえられ、焙烙火矢を抱えた兵士たちが、ただ指揮官の命令だけを待っている。
彼らの目には、初陣の前の夜に見せたような恐怖の色はない。
あるのは、自分たちの軍師が描いた完璧な脚本の上で、自らの役目を果たすことへの、静かな、しかし燃えるような高揚感だけだった。
「軍師様」
伝令役の若者が、隣に控える源次に声をかけた。「権兵衛殿より伝令!『潮は、今が頂点。これより流れはさらに速くなります。……いつ、仕掛けますか』とのこと!」
その声は、焦りではなく、ただ純粋な問いだった。権兵衛もまた、この船団の「心臓」が、櫓の上に立つこの若き男であることを、完全に理解していた。
源次は、答えなかった。
彼は、ただ静かに、港の櫓の上に立つ見張り兵たちを見つめていた。
彼らが、砦の火事に完全に気を取られ、背後の闇への警戒を解く、ただその一瞬。
人間が、最も無防備になる、その心理的な潮目。
それをも、彼は読んでいた。
やがて、見張り兵の一人が、あろうことか櫓の上に座り込み、酒の入った瓢箪を煽り始めた。
「どうせ、ただの火事だ。俺たちが慌てるこたあねえ」
その完璧なまでの油断。
(……今だ)
源次は、胸の中で静かに呟いた。
彼は、ゆっくりと、そして力強く、右手に握りしめた軍配を、天へと振り上げた。
それは、この戦の始まりを告げる合図ではなかった。
それは、この戦の終わりを告げる、死刑執行の宣告だった。
がら空きの港。
あまりにも甘美な、正面からの好機。
その全てが、今、彼の掌の上にあった。