第280節『陽動の狼煙』
第280節『陽動の狼煙』
砦の内部、うず高く積まれた薪置き場の暗がりの中、新太は息を殺し、ただ一点、東の空を見上げていた。
弥八の手引きで潜入に成功し、全ての準備は整った。背後では、弥助をはじめとする精鋭たちが、同じように闇に溶け込み、主君の命令だけを待っている。
砦の建物の隙間から覗く空は、まだ漆黒の闇に閉ざされている。だが、彼の研ぎ澄まされた感覚は、その闇の質が、ほんのわずかに変わり始めていることを捉えていた。夜が最も深くなる時刻を過ぎ、やて訪れる夜明けの気配が、大気に微かな変化をもたらしている。
風向きが、変わった。
それまで山から吹き下ろしていた冷たい風がふっと止み、代わりに、海の匂いをたっぷりと含んだ、湿った南風が、砦の壁を撫で始めた。
そして、波の音。
崖の下で砕けていた波の音が、先ほどよりも明らかに大きく、そして力強くなっている。
潮が、満ち始めたのだ。
(……来る)
新太の胸の内で、その一言が響いた。
それは、源次の声だった。
――『潮が満ち始め、風が南に変わる。それが、俺たちが港に接近する合図だ』
出陣前、天幕の中で地図を前に語った友の言葉が、寸分の狂いもなく現実となっていく。その神がかり的なまでの潮読みに、新太は改めて戦慄を覚えた。
(あの男には、本当に全てが見えているのか……)
彼は、自らの内に渦巻く畏怖を、闘志へと変えるように、静かに立ち上がった。
彼は、懐から火口と火打ち石を取り出した。
彼の指先が、冷たい鋼を握りしめる。
この一撃が、全てを変える。
この火花が、この砦を地獄へと突き落とす。
彼は、一度だけ目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、井伊谷の穏やかな風景。そして、そこで自分に「居場所」を与えてくれた、友の顔。
(源次……お前の描いた絵図、最高の形で演じきってやるぜ)
カチッ、と硬い音が、夜の静寂を破った。
一度、二度。
三度目に打ち合わせた火打ち石が、鋭い火花を散らし、火口に用意された燃えやすい艾に、小さな赤い点が灯った。
その小さな炎は、まるで地獄の始まりを告げる鬼火のように、暗闇の中で妖しく揺らめいた。
新太は、その火種を、あらかじめ用意しておいた松明の先端へと移した。
ボッ、という音と共に、松明が勢いよく燃え上がる。
その炎が、闇の中に潜む兵たちの、決意に満ちた顔を赤々と照らし出した。
「――火を放て!」
新太の、地を這うような低い、しかし有無を言わせぬ号令が響き渡った。
その声を合図に、兵たちが一斉に薪置き場の陰から飛び出した。
最初の松明が、食料庫の壁際にうず高く積まれた、乾いた藁の山へと投げ込まれた。
一瞬だった。
炎は、まるで飢えた獣が獲物に喰らいつくかのように、瞬く間に藁へと燃え移り、轟音と共に天へと立ち昇った。
夜の闇を突き破る、巨大な火柱。
それは、この砦の終わりを告げる、壮麗な狼煙だった。
だが、彼らの仕事はそれだけでは終わらない。
「次だ!」
新太の号令一下、別の部隊が、食料庫の隣にある馬小屋へと駆け込んだ。
彼らは、眠っていた馬たちの首に繋がれた縄を、次々と小刀で断ち切っていく。
背後で燃え盛る炎の熱と、煙の匂いに驚いた馬たちが、一斉に狂ったように嘶き始めた。
ヒヒーンッ!
その甲高い鳴き声は、どんな法螺貝の音よりも、砦の兵たちの眠りを深く突き刺した。
縄を切られた数十頭の馬が、パニックに陥り、馬小屋の柵を蹴破って、砦の中を暴れ回り始めた。
炎の爆ぜる音。
馬の嘶きと、大地を揺るがす蹄の音。
そして、それに気づいた砦の見張り兵が、寝ぼけ眼で鳴らす半鐘の、けたたましい響き。
カン、カン、カン、カン!
静寂は、完全に破られた。
「――火事だ! 火事だぁ!」
誰かの絶叫が、砦中に響き渡った。
その声を皮切りに、兵舎の扉が次々と蹴破られ、眠っていた海賊たちが、武器を手に、あるいは寝間着のまま、何が起きたのかも分からずに飛び出してくる。
「何事だ!」「敵襲か!?」「いや、火事だ! 裏手の方が燃えているぞ!」
混乱の幕が、今まさに切って落とされた。
新太は、燃え盛る食料庫の炎を背に、静かに槍を構えていた。
彼の瞳には、赤い炎が映り込み、まるで鬼神のように燃えている。
陽動は、始まった。
これから、この砦の全ての憎悪と殺意が、自分たち三十余名に集中するだろう。
それは、想像を絶する死地。
だが、彼の口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
(……来いよ、村櫛党。お前たちの地獄は、まだ始まったばかりだぜ)
彼は、自らが作り出したこの混沌を、むしろ楽しんでいるかのようだった。
友が描いた盤面の上で、主役として踊ることを。
その背後で、食料庫の屋根が、轟音と共に焼け落ちた。
炎は、さらに高く、天を焦がすかのように燃え盛っていた。