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第28節『歴史の変数』

第28節『歴史の変数』

新太の槍は、源次の硬直を見逃さなかった。

だが、その穂先が源次の胴を貫く寸前、月光を遮るように一つの影が割り込んだ。

ガギンッ、と甲冑が砕ける鈍い音。

次いで、肉が裂ける生々しい感触が空気を震わせた。


「――っ!?」

源次の頬に、生温かい飛沫が散る。

その感触で、止まっていた時間が再び動き出した。

目の前には、自分を庇うように立ちはだかる、古参兵の広い背中。

その肩口を、新太の槍が深々と抉っていた。


「……重吉さん……!?」

赤黒い血が、砕けた鎧の隙間から絶え間なく溢れ出す。

「なぜ……戻ったんですか!」

源次の叫びが喉を裂く。


ひゅっ、と喉が引き攣り、呼吸ができなくなった。視界が白く点滅し、耳の奥で自分の心臓が破裂しそうなほど鳴り響いている。目の前で起きている惨状を、脳が理解することを拒絶していた。

(違う、違う、違う――!)

だが、血の鉄臭さが鼻腔を突き刺し、重吉の苦悶に歪む顔が、否応なく現実を叩きつけてくる。


(俺のせいだ……! 俺の頭の中の混乱が、重吉さんを……!)


罪悪感が脳天を貫いた瞬間、不思議なことが起きた。

全身の震えは止まらない。呼吸も浅いままだ。だが、パニックの頂点で、彼の思考だけが氷のように冷えていく。まるで他人事のように、目の前の光景を「情報」として処理し始めたのだ。

歴史研究家としての三十余年が、極限状況下で最悪の形で顔を出す。これは感情に溺れるべき現実ではなく、分析すべき「歴史的発見」の現場ではないか、と。


長年追い求めた「研究対象」が、今まさに自分を殺そうとする「捕食者」として目の前にいる。その恐怖から逃げるために、彼の脳は勝手に思考の鎧を纏い始めた。


そして、より深い絶望が源次を襲う。

彼がこの世界で唯一頼りにしてきたもの――それは未来を知る「歴史」という名の絶対的な地図だった。

だが、「新太」という存在は、その地図の根幹を揺るがす。

(俺が異端だと信じてきた仮説が真実だったということは……俺が常識だと信じてきた「正史」の方こそが、不完全な欠陥品だったということじゃないか……!)

呼吸が苦しい。なのに、思考だけは止まらない。

(これから起こるはずの三方ヶ原の戦いで、家康は本当に生き延びられるのか? 長篠の戦いで、武田の騎馬隊は本当に敗れるのか? そして、あの本能寺の変は――?)

いや、問題はそこじゃない。歴史の結果は同じかもしれない。だが、そのプロセスが全く読めなくなった。

(本能寺の変は起こるだろう。だが、光秀ではない誰かが信長を討つとしたら? 新太のような存在が裏で糸を引いていたら? 俺の知識は、未来を照らす光ではなく、俺を誤った道へ誘い込む罠になる!)

(武田に新太がいるなら、他の勢力にも俺の知らない「何か」があるんじゃないか……? 噂に聞く徳川の影……いや、今はそれどころじゃない!)

羅羅針盤を失った船乗りが、嵐の海に投げ出される。

自分の知識体系が、その足元からガラガラと崩壊していく音を聞いた。


新太は追撃の構えを見せた。

しかしその刹那、戦場の背後から怒号が響いた。

「退け! 深追いは無用!」

同時に、井伊軍の敗残兵が投げやりに放った矢が飛び交い、赤備えの兵たちの足並みを乱す。

状況を察した新太は忌々しげに舌打ちし、槍を引き抜くと、源次の顔を鋭く睨みつけた。

その視線は、焼き鏝のように源次の心に刻み込まれる。

そして、新太は踵を返し、赤備えの兵を従えて闇へと消えていった。


「重吉さん!」

思考の鎧が砕け散り、源次は我に返ってその身体を抱きかかえる。

肩口からは止め処なく血が溢れていた。

「……すまねえな、手前のせいで……」

「違う! 違うんです! 俺が……俺の頭の中がぐちゃぐちゃになって……それで……!」

源次の声は震えていた。

自分の知的パニックが、仲間を犠牲にした。その事実は、堪えがたい罪悪感となって全身を苛む。

自分の推察力が優れているなどという自信など、微塵も湧いてこない。

むしろ、中途半半端な知識こそが、この惨状を招いたのではないか。

重吉は荒い息を吐きながら、それでも笑おうとした。

「へっ……俺は古い人間だ。お前さんみてえな若ぇのが、これから先を背負わなきゃならねえ……」

その言葉は、血に濡れた大地よりも重く、源次の心にのしかかった。

源次は奥歯を噛みしめた。

自分の知識――唯一の武器と思っていた羅針盤は、もう信じられない。

そして、その混乱が仲間を傷つけた。


(俺はもう、ただ歴史を知る傍観者じゃない……)

(この世界の真実を、この手で、この目で見つけ出し、不確かな未来を切り拓くしかないんだ……! 重吉さんの犠牲を無駄にしないために!)

血の匂いとともに、巨大な謎が源次の前に立ちはだかる。

それは「歴史」という名の、自ら進むべき道を探さねばならない迷宮だった。

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