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第279節『竜神の道、開く』

第279節『竜神の道、開く』

 時は、満ちた。

 それまで崖の下で荒れ狂っていた波が、ふっと、その勢いを弱めた。

 まるで巨大な獣が深呼吸をするかのように、黒い水面がゆっくりと、しかし確実に後退を始める。大潮の夜、その干潮がもたらす、束の間の奇跡。

 崖の上からその光景を見下ろしていた新太は、息を呑んだ。源次が予言した通りの光景が、今、目の前で現実となっている。波が引いた後の濡れた岩肌の向こうに、これまで水面下に隠されていた、三日月形の小さな砂浜が、まるで亡霊のように姿を現したのだ。

 竜神の道――言い伝えに聞く、伝説の入り江だった。


(……本当に、現れた)

 新太の胸に、戦慄にも似た感情が走った。

(源次の奴……本当に、天の動きまでをも読み切っていたというのか。もはや、軍略の域を超えている)

 彼は、友の持つ力の底知れなさに改めて畏怖を覚えながらも、その完璧な脚本の上で、自らの役目を果たすべく、静かに立ち上がった。

「……行くぞ」

 その低い声に、背後で息を殺していた三十の兵たちが、一斉に動き出す。


 崖の上から、一本、また一本と、黒い縄が音もなく下ろされていく。

 新太を先頭に、部隊は誰一人として声を上げることなく、次々と秘密の入り江へと降り立っていく。

 濡れた砂を踏みしめた瞬間、彼らは外界から完全に隔絶された。見上げれば、天を突くような絶壁。背後には、再び満ちようと牙を剥く荒海。

 だが、彼らにとって、この閉ざされた空間こそが、敵の心臓部へと至る、唯一の道だった。


「――船手頭様! お待ちしておりました!」

 入り江の奥、岩壁の陰から、先行していた工作部隊の頭領が音もなく姿を現した。

 彼は、一枚の粗末な地図を差し出し、小声で報告する。

「これが、崖の上にある見張り台までの、最も安全な道筋にございます。見張りは二人。交代の直後で、最も気が緩んでいるはず。奴らを音もなく始末できれば、砦の内部へ続く古い獣道を確保できます」

「……うむ。案内を頼む」


 工作部隊の先導で、一行は絶壁に穿たれた僅かな足場を、獣のように登っていく。

 息遣いすら押し殺し、ただ岩肌を掴む指先と、足元の感触だけが頼りだった。

 やがて、見張り台の真下にたどり着くと、工作部隊の二人が、まるで闇に溶け込むかのように、音もなく壁を駆け上がっていった。

 一瞬の静寂。

 くぐもった、人の喉が潰れるような音が二度、かすかに響いた。

 それだけだった。

 工作部隊の頭領が、崖の上から「よし」という無言の手信号を送る。

 見張りは、自らが死んだことすら気づかぬまま、闇に沈んでいた。


 砦の内部へと続く、古い獣道。

 そこは、木々が覆い茂り、昼なお暗い闇に包まれていた。

 その道の先で、松明の光が二度、三度と点滅した。あらかじめ示し合わせていた合図だった。

 光の主は、弥八だった。

 彼は、内通者である藤吉と共に、この瞬間を息を殺して待ち続けていたのだ。

「――新太様! お待ちしておりました!」

 弥八は、新太の前に進み出ると、一枚の紙を差し出した。藤吉が命がけで描き上げた、砦内部の詳細な見取り図だった。

「これが、食料庫までの最短経路と、見張りの交代時刻にございます。……全て、整いました」


 新太は、その見取り図を静かに受け取った。

 外からの「道」を開いた工作部隊。

 内からの「扉」を開いた弥八と内通者。

 そして、その二つを繋ぐ、自分たち陸戦部隊。

 源次が描いた、完璧なまでの布石。その全てのピースが、今ここで一つになった。


 彼は、懐から火口と火打ち石を取り出した。

 その冷たい鋼の感触が、これから始まる血の儀式の始まりを告げていた。

 彼は、部下たちに無言で、しかし力強く頷いてみせる。

 弥助をはじめとする精鋭たちが、一斉に目を見開き、それぞれの得物を握りしめた。

 彼らの目には、恐怖ではなく、これから始まる壮大な作戦への、昂ぶりと覚悟が宿っていた。

 陸の部隊の、本当の潜入が、今まさに完了しようとしていた。

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