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第278節『闇を駆ける刃』

第278節『闇を駆ける刃』

 井伊水軍の本隊が、荒れ狂う浜名湖の闇へとその姿を消した、まさに同じ時刻。

 村櫛砦の背後に広がる山々は、湖上とはまた違う種類の、静かで、しかし底知れぬ恐怖をたたえた闇に包まれていた。

 木々が風にざわめき、その音がまるで無数の亡霊の囁きのように聞こえる。時折、闇の奥からふくろうの不気味な鳴き声が響き、梢を渡る風が人の呻き声のように聞こえた。

 ここは、獣道すら途絶えた、人の踏み入らぬ領域。

 その闇の中を、三十の影が、音もなく進んでいた。


 先頭を往くのは、新太だった。

 彼は、海戦のために用意された重い鎧兜は身に着けていない。体にぴったりと合った黒装束の上から、要所だけを革で補強した軽鎖帷子かるくさりかたびらをまとい、背には愛用の槍を布で固く巻いて背負っている。その姿は、もはや武士というより、山野を自在に駆け巡る忍びの一団の頭領そのものだった。

 彼の足は、ぬかるんだ地面や、苔むした岩の上を、まるで獣のようにしなやかに、そして確実に捉えていく。立ち止まることなく、迷うことなく、ただひたすらに、闇の奥へ、奥へと。


 彼の後に続くのは、弥助をはじめとする、かつて武田の兵であった者たちを中心とした精鋭部隊。

 彼らもまた、新太と同じように黒装束に身を包み、その動きには一切の無駄がなかった。武田信玄がその版図を信濃の山々へと広げる過程で最も重要視した、山岳地帯での戦闘能力。彼らは、その特殊な訓練を徹底的に叩き込まれてきた、いわば山岳戦のスペシャリスト集団だった。


「……弥助」

 先頭を進む新太が、歩みを止めることなく、低く囁いた。

「気配は」

「はっ」と、すぐ後ろに控える弥助が応える。「今のところ、敵の斥候の気配はございません。ですが、この先に小さな沢がございます。水音に紛れて、伏兵が潜んでいるやもしれませぬ」

「……分かっている」

 新太は、風の匂いを嗅ぐように、鼻をひくつかせた。湿った土の匂い、腐葉土の匂い。その中に、人の汗や、焚き火の煙の匂いが混じっていないかを、野生の獣のように確かめているのだ。


 やがて、一行が目印としていた古い樫の木の前にたどり着いた時、闇の中からかすかな鳥の鳴き声が三度、響いた。

 それは、あらかじめ示し合わせていた合図だった。

 新太が同じように鳥の声を返すと、茂みの中から数人の影が音もなく姿を現した。彼らこそ、数日前に源次が先行して送り込んでいた、猟師や元忍びで構成された工作部隊だった。彼らはこの数日間、敵に気づかれることなくこの山中に潜伏し、砦周辺の地形と見張りの配置を完璧に把握していた。

「船手頭様。お待ちしておりました」

 工作部隊の頭領が、一枚の粗末な地図を差し出し、小声で報告する。

「砦の裏手、崖の上の見張りは二人。交代の時刻は、あと半刻後。その隙を突けば、音もなく始末できます。道案内は、我らにお任せを」

「……うむ。大儀であった」

 新太は短く応え、地図を受け取った。友が描いた盤面の上で、駒が一つ、また一つと完璧に動いている。その事実に、彼の胸に静かな、しかし燃えるような闘志が宿った。


 部隊は、沢を慎重に渡り終え、工作部隊の先導でさらに険しい登り坂に差し掛かった。

 息が切れ、肺が焼けつくように痛い。だが、誰一人として弱音を吐く者はいない。彼らは、ただ黙々と、先頭を往く指揮官の背中だけを追い続けていた。


 やがて、木々の切れ間から、視界がわずかに開けた。

 眼下に、黒々とした巨大な塊が、闇の中に沈んでいるのが見えた。

 村櫛砦だった。

 遠く、いくつかの篝火が、まるで鬼火のように揺らめいている。

 風に乗って、酔った海賊たちの、下品な笑い声や怒鳴り声が、かすかに聞こえてきた。彼らは、この闇と嵐の夜に、自分たちの頭上、すぐそこまで死神の刃が迫っていることなど、夢にも思っていない。

「……見えたな」

 新太は、その光景を、冷たい目で見下ろしていた。


 彼は、部下たちに手信号で「伏せ」と命じると、自らはさらに先の、崖の先端へと匍匐前進で進んでいった。

 眼下には、源次の地図に示されていた通りの、砦の裏手の絶壁が広がっている。

 その崖の下、闇に閉ざされた水面が、時折打ち寄せる波によって、わずかに白い泡を立てていた。

 今はまだ、ただの荒れ狂う海。

 だが、あと半刻もすれば。

 大潮の干潮が、その正体を現すはずだ。


(源次……お前の言う通り、本当に道は現れるのか)

 新太は、疑っているわけではなかった。

 むしろ、これから目の当たりにするであろう、友が予言した「奇跡」の瞬間を、固唾をのんで待っていた。

 彼は、懐から小さな布袋を取り出した。中には、火打ち石と、油を染み込ませた火口が入っている。

 この小さな火種が、やがてこの難攻不落の砦を、地獄の業火で包むことになる。

 潜入の時が、刻一刻と迫っていた。

 新太は、冷たい岩肌に身を寄せ、息を殺したまま、ただじっと、潮が引くその瞬間を待ち続けた。

 彼の背後で、三十の影が、同じように息を殺し、主君の次なる命令を待っていた。

 陸の部隊の、静かな、しかし最も重要な戦いは、すでに始まっていた。

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