第277節『静かなる出航』
第277節『静かなる出航』
夜は、その深淵をさらに深くしていた。
作戦決行を告げる丑三つ時。浜名湖の湖上には、陸から吹きつける「おろし」と呼ばれる冷たい強風が吹き荒れ、黒い水面を獣の背中のように波立たせていた。空は厚い雲に覆われ、月も星も見えない。まさに、天地の理を知らぬ者にとっては、舟を出すことすらためらわれる嵐の前夜であった。
だが、井伊水軍の拠点だけは、その闇の中で音もなく蠢いていた。
松明は全て消され、兵たちは声を発することなく、ただ影のように動き回っている。鎧の金具が擦れる音すら聞こえない。それは、源次が徹底させた「音無しの陣」の成果だった。
浜辺に並ぶ十数隻の船団。その船体は、闇に溶け込むように黒く塗り込められ、井伊家の誇りである井桁の旗さえも、今は降ろされている。彼らは、その存在を闇に完全に消し去り、ただ一つの瞬間を待っていた。
旗艦「竜神丸」の最も高い櫓の上で、源次は一人、風を受けて立っていた。
頬を打つ風は刃のように冷たく、湿った潮の香りが彼の肺を満たす。だが、その瞳は、眼下に広がる荒れた湖面を、恐怖ではなく、好機として捉えていた。
(……来たな)
彼の脳裏には、数日間にわたって観測し続けた気象のデータが、確かな未来図を描き出していた。西の空に流れる雲の形、生暖かい風の湿り気、そして水鳥たちの動き。漁師だった頃の爺が叩き込んだ観天望気と、彼が持つ現代の気象知識が、この嵐が夜明け前に一時的に弱まり、かつ濃い霧を発生させることを、寸分の狂いもなく予測していたのだ。
(この嵐に紛れれば、敵の見張りに気づかれるリスクは限りなくゼロに近づく。まさに、天が与えた最高の舞台……)
その時、船団のやや先頭を進む権兵衛の偵察部隊の旗船から、甲高い音が二度、夜の闇を鋭く切り裂いた。
カン、カン!
陣鐘の音。それは「これ以上の進軍は危険」を意味する、緊急の信号だった。百戦錬磨の海の雄である彼ですら、この闇と嵐の中を進むことの無謀さを、本能で感じ取っていたのだ。
だが、源次の答えは、彼の予想を遥かに超えて、冷静だった。
源次は、傍らに控える法螺貝役に、静かに頷いてみせる。
ブオオオオオッ―――。
一度目の、長く力強い進軍の合図。
そして、間髪入れずに、二度目の法螺貝が夜空に轟いた。
ブオオオオオッ―――!
その二度にわたる強烈な響きは、権兵衛の警告を完全に上書きし、「問答無用、ただちに進軍せよ」という、総大将の揺るぎない決意を、船団の全ての兵士に叩きつけた。
その音を聞いた権兵衛は、一瞬、息を呑んだ。
(……こいつ、本気か。この嵐の、さらに先の潮の流れまで、本当に見えているというのか)
彼は、あの漁対決の日の、信じがたい光景を思い出した。人知を超えた力で、湖そのものを味方につけた、あの男の姿を。
(……潮神様)
彼の口から、無意識にその呼び名が漏れた。
「へっ……分かったよ。あんたがそこまで言うなら、付き合ってやるぜ、この地獄に!」
権兵衛は、自らの手で太鼓を打ち鳴らし、配下の船団に進軍継続の合図を送った。「野郎ども、聞いたな! 櫂を入れろ! 軍師様のお通りだ!」
彼の吹っ切れたような声が、船団に響き渡った。
ザッ、という音と共に、数十本の櫂が一斉に黒い水を捉えた。
船団は、まるで巨大な黒い魚の群れのように、音もなく滑り出した。
源次が設計した、低重心・波切構造の新型船は、その真価を発揮していた。荒波に乗り上げるのではなく、その鋭い船首で波を切り裂き、船底の重しが船体の揺れを最小限に抑える。従来の和船であれば木の葉のように翻弄されるであろうこの嵐の中を、井伊水軍の船団は、驚くべき安定性と速度で、ただ一点、村櫛砦を目指して突き進んでいった。
櫓の上で、源次は軍配を固く握りしめていた。
風が唸り、雨が頬を打ち、船がきしむ。
その全てが、彼にとっては勝利へと至る交響曲のように聞こえていた。
(直虎様……見ていてください。あなたの井伊家が、今、新しい歴史の海へと漕ぎ出します。この嵐の向こうに、必ずや夜明けを掴んでみせます)
彼の視線は、もはや後方の井伊谷を見てはいなかった。
ただ、闇に閉ざされた前方、敵が待ち構えるはずの、血と炎の戦場だけを、真っ直ぐに見据えていた。
井伊水軍の船団が、荒れ狂う湖の闇へと完全にその姿を消していく。
彼らの運命を賭けた、あまりにも危険で、そしてあまりにも壮大な航海が、今まさに始まったのだった。
その航跡は、歴史のどの海図にも記されることのない、全く新しい航路を描き出そうとしていた。